Gallery PARC[グランマーブル ギャラリー・パルク]では、現在活躍する・またこれから注目を集める様々なクリエーターを取り上げ、発表の機会を提供することで、その活動をサポートする「PARC_ Creator Support Project 」に取り組んでいます。2010年には、ヤマガミユキヒロによる「Sampling Your Memory」 展を、2011年には国谷隆志による「Mars」を開催し、それに続く#03として、11月24日から12月9日まで、山本聖子による個展「円の手ざわりはつるつるかざらざらか」を開催いたします。
山本聖子(やまもと・せいこ / 京都・1981~)は、2004年に大阪芸術大学を卒業、2006年に京都造形芸術大学大学院を修了後、京都と東京での個展開催の他、2010年に国際芸術センター青森でのレジデンス、2011年にはVOCA展出品をはじめ、六甲ミーツ・アート芸術散歩2011(六甲高山植物園)にて公募大賞、東京ミッドタウンプログラム:ストリートミュージアム(東京ミッドタウン内)にてアートコンペ・グランプリを受賞するなど、高い評価を獲ています。とりわけ、不動産の挟み込みチラシにある「間取り図」を丁寧に切り取り、ラミネートパウチして再度切り抜いた無数のパーツを立体へと構成する一連の作品は、私たちの生活空間の画一性とともに、一見すると無機的なタテとヨコの線へと還元された「間取り図」が、なおも見せる有機的な美しさをあわせて見ることができます。
幼少の頃からニュータウンで育った山本は、内側(プライベート)を感じさせない均質な間取りの集合を原風景に持ち、その機能性・合理性優位な街に暮らすなかで、自身の感覚機能の衰えに焦燥感を感じずにはいられなかったといいます。「間取り図」の作品では、その無機的な記号から情報や意味を切り落とし、線による幾何学的な形へと還元した果てに、再び物質としての存在感を見いだす事が、世界と自分の存在を確認することだったといえるかもしれません。
本展では山本がこれまで一貫して見据えようとしている「幾何学」的への視点とともに、間取り図の作品に見る「 内:外」といった関係項、開催中の六甲ミーツ・アート芸術散歩2012で見せた、「向こう:こっち」に存在する「距離」に焦点をあわせ、会場内に大型のインスタレーションを展開します。
関西では久しぶりとなる今回の個展を通じて、その目線を追いかけるうち、世界の在り様の断片を知る事が出来るのではないでしょうか。
円の手ざわりはつるつるかざらざらか
「円は無数の多角形であることを証明する数式があるんだよ。」
その言葉を聞いたとき、私の中で何かが崩落した。
それもわりと大きなものが。
円を完璧なものとして敬い憧れ続けてきたそれまでの私はいったいなんだったのか。
それからの数週間、私はまるいものを見れなくなった。それから少し経ってなんとか精神を回復させ、私を絶望の淵に落としこんだ友人に数式の説明を求めた。
結果、納得しなかった。
しかしこの一連の出来事は私に新たな感覚を想起させた。
円に無数の角があることを1000歩譲って認めるなら、その手ざわりはいったいどんなだろう。
絵画の中の女性の肌のやわらかさを想像することはあるけれど、図形の手ざわりなんて考えたことも無い。
いったい円の手ざわりはつるつるなのだろうか、それともざらざらなのだろうか。私は幼少の頃からマンションの立ち並ぶニュータウンで育った。
そこは便利で快適ではあるものの、内側にあるはずの人間の生活を見せることを過剰なほどに拒む。
プライバシーを守ることと引き換えに街は均質化し、あらゆる感覚機能はどんどんと衰えていく。
私は焦燥感を感じずにはいられなかった。私は広告から間取り図を無数に切り抜くことで奪われた感覚を取り戻したかったのかもしれない。
それは二次元へと圧縮された間取り図を三次元へと引き戻すかのような作業で、世界と自分の存在を確認することなのだ。
無数に組み合わせた間取り図は、情報は無く、意味を失い、タテとヨコの線へと還元される。
フレームとして、幾何学的な形として、ただただ物質としてそこに存在する。幾何学的なかたちに無性に憧れる。それはあらゆるくだらなさを超えた世界があることを示唆してくれる。しかしそんな憧れを抱きながら、同時に日々の欲求を否定することもできない。時に円をつるつると思い、時にざらざらと思い、時に手ざわりを否定しながら、自分に都合よく解釈しながら生きている。
2014年12月01日
山本 聖子
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ただ、山である 六甲ミーツ・アート芸術散歩2012 olid drawing of emptiness olid drawing of emptiness frames of emptiness |