たとえばコーヒーに落ちたミルクの滴が、そのつど表情豊かな模様を描くように。また、ある場所に伸びる一本の枝が、固有の枝振りを描くように。
全ての出来事がドラスティックな因果に即して、その状態であるべくして独自の様相を成り立たせている。しかし、「そうなった」ことと「そうならなかった」こととの間に、果たしてどれほど切実な要因が介在しているというのか。一度限りのこの世界においては、到底起こりえなかったことも、ややもすると起こりそうだったことも、あまねく平等に世界からこぼれ落ちていく。
一方で、選び取られた唯一無二の結果の上に次の結果が累積していき、刻々と偏りの特性が顕著になっていく。そうして、たった一つの世界の姿がかたちづくられる。とりもなおさず世界の現実とは、今この瞬間において、すべての「別の状態であった可能性」を排除した唯一のまごうかたなき事実であると共に、たまたま脱落を免れただけの、一つの結果にすぎないともいえる。
グチックとは、ありそうでいて実在しないある種のフォルムに関して音付けられた仮の呼称である。
意味が付帯するより先に「在ってしまった」この世界や我々と同様に、線で囲まれたカタチの特性は、それ自体がぬきさしならぬ事実を語っている。私は支持体の上で線を描き、消してはまた描き直し、延々と繰り返すその行為なかで、美しいものでも格好良いものでもなく、ましてや荒唐無稽な架空の創作物でもなく、事実として「あるべきもの」の姿を求めて試行錯誤する。
おのずとそれは、この世界と隣りあわせの位相に棲む何かを穿りだしてきたようなフォルムに収斂していく。描画の過程で、現れてくるそれらのカタチがいびつに存在を主張するたび、私は避けられない不条理をトレースしているかのような居心地の悪さと同時に、そういうものにこそ核心的なリアリティを見出さずにはいられない。
山岡 敏明
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