ギャラリー・パルクでは、4月28日[火]から5月10日[日]まで、麥生田兵吾による個展「Artificial S 3 Someone(Another one) comes from behind. “後ろから誰か(他の)がやってくる”」展を開催いたします。
麥生田兵吾(むぎゅうだ・ひょうご/1976年・大阪府生まれ)は、2010年の1月より毎日撮影した写真をその日のうちに自身のウェブサイト(http://hyogom.com)内の「pile of photographys」にアップする試みを、5年以上に渡って現在まで絶え間なく続けています。
麥生田がその主題として掲げる「Artificial S」。Sは“sense=感覚(感性)”などの意であり、「Artificial S」は「人間の手によりつくられた感性」というような意味として据えられているものです。それらは現在のところ5章に分類されてそれぞれに深められており、2014年に本ギャラリーで開催した個展「Artificial S 2 Daemon」は、「人の心におさまっている正体を定めないイメージを露にする」ことをテーマに構成されました。本展はその3章に位置づけられているもので、「人、人々、または複数形の人々(peoples)」をモチーフに扱った作品群となります。
本展に展示されるのはすべて麥生田兵吾がこれまでに撮影先で出会った人々のポートレートです。その写真の多くは被写体を真正面からとらえたものであり、そこには麥生田とそれぞれの営みが交差した瞬間の姿、顔、時間、場所が写し取られています。また、撮影者(麥生田)にまっすぐに向けられた人々の視線からは、麥生田が撮影の際に出会った人々と十分な時間をかけて対話をおこない、真正面にカメラを構えて撮影した情景が思い浮かべられます。
剥き出しに溢れる生を前に、同じく生にある麥生田が、それぞれの生と対話し、交錯した瞬間(時間)をおさめたその写真には、「生あること」のただ中にある人々のありのままの姿を見ることができるとともに、それぞれの目線の先に立つ私たち鑑賞者に、同じく「生あること」を問いかけはじめるかもしれません。
本展は2012年より3回目の開催を迎える、同時期に京都市内各所で開催されている「KYOTOGRAPHIE 2015」(http://www.kyotographie.jp/)のサテライトイベント「KG+2015」の参加展覧会です。
主 催:Gallery PARC/協 力:キヤノン株式会社/特別協賛:株式会社グランマーブル
主題「Artificial S」について
私は作品の主題を「Artificial S」と定めて写真活動を行っています。 意味は「人工的なエス」です。「エス」は、”感性”の”Sense”の、”誰か”の”Someone”の、”そういえば”と言っちゃうような時の”Souieba” の、または複数の、「S」を指します。
主題は5つか6つほどの副題から構成されます。 昨年同ギャラリーで2章目にある”Daemon”の展示を行いました。今展は3章目になります。 特に”人、人々、または複数形の人々(peoples)”をモチーフに扱った作品群です。 主題は全章つうじて「生死、死生」を表現します。
「生から死へ」というシーズンでは決してなく(「生」と「死」という切り分けられた瞬間(静止)ではなく)「生あること」を求めます。 震える「生」です。
副題 ”後ろから誰か(他の)がやってくる”について
わたしは写真の前に立っています。
わたしが立つここに、あなたは来てくれて、そして同じに立つのです。
あなたは「わたしはここに立っている」、わたしと同じにそう思うことができます。
わたしはあなたのことをよく知りません。あなたもわたしのことをあまりよく知らないでしょう。そして写真の「中」(=情報)に写る一人一人の殆ど全員を、あなたは(実はわたしも)全く親しく知りません。名前も知らない人たちです。そんな彼らが四角い写真の「中」(=情報)にいます。しかし、わたしとあなたと同様に、誰かに呼ばれる名前をきっともっています。名前は個人の断片です。それにその個人そのものでもあります。
名を呼ぼうと一瞬息を吸う、それよりももっと一瞬の断片。
この場(主題:Artificial S )において、断片とは写真です。ここでの断片=写真は、ひとつ時間の線に連続しません。ですから、それらが連続連鎖して生まれてくるストーリーはありません。複数の断片=写真は、ひとつの壁、テーブル、空間の断面に置かれます。ある季節の、ある陽の高さの、影の長さの、ひとつの時間の断面に、置かれます。”今”に置かれています。
”今”は、肉体に応対して出現するように感じています。肉体は、記憶(アーカイブ)のように収まった情報ではなく、常に未知の情報にさらされています。記憶を持った肉体と未知との境界に、空間が現れます。その空間は広大でありながら、厚みのないものです。そのあり方の感じは、写真のあり方を考える時に口の中に広がる味に、大変良く似ています。わたしもあなたも、同じ写真の前に立ちます。わたしとあなたは、手を繋ぐことも面と向かって言葉を交わすこともありません。”わたしたち”ともくくれない関係ですが、しかし同じ写真(同じ場所)を前にしたなら、あなたとわたしは、別の時間と空間で重なることになります。重なるあなたをわたしは想像します。わたしのかぎりにおいて。
わたしの中に現れるあなたは、あなたに間違いありませんか?
(しなくてよい質問ですが、尋ねてみたいのです。)わたしは、不安に思うこともなく、私の中に現れるわたしを、私で間違いないと答えられません。
わたしはその不可能さがおもしろいです。感じるのではありません。不可能さそのものになるのがおもしろいのです。ほらこうなんです。わたし、パッパラパーなんです。あ、そういえば、よく知らないどころか、わたしはあなたに会ったこともありませんでした。ここまでずっと、わたしの中に現れているあなたは、一体誰ですか?
わたしを思うわたしは誰ですか?
麥生田 兵吾
作家略歴
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