Gallery PARC[グランマーブル ギャラリー・パルク]では会場提供による大学協力展として、2020年2月21日(金)から3月8日(日)まで、京都造形芸術大学美術工芸学科 写真・映像コースの主催による「表層と深層|Surface and Depths」を開催いたします。
出品作家である大河原光・志村茉那美・白井茜は、同じ写真・映像コースに集いながらも、年齢や来歴はそれぞれ異なります。修士課程のみ在籍(2015年に修了)していた大河原光。同大学の映画学科から転学した後、現在は東京藝術大学大学院映像研究科修士課程に籍を置く志村茉那美。同じく日本画から写真にコースを移し、現在も在籍する白井茜。それだけに同じ「写真・映像」としながらも、制作のアプローチや作品を通した社会への眼差しも異なります。
3つのフロアで展開するそれぞれの作品には、個々の眼差しを通じて、それぞれが関わりを持った場や時間の様相を見るとともに、その眼が捉えた社会の表層としても見ることができます。同時に、それらはひとつの社会や時代を深層とした、ある纏まりを持った表象とも見ることができるのではないでしょうか。
本展において鑑賞者のみなさまには、それぞれの作家・作品に内在する「表層と深層」への眼差しだけでなく、それら作品を表層あるいは深層とする場や背景(社会や歴史など)にも眼差しを向ける機会となれば幸いです。
一時的に集う場に流れる水
教育機関が主催する展覧会はその教育成果=宣伝・広報活動の意図・意味合いが含まれ、鑑賞者はバイアスをかけた上で鑑賞するのが常である。しかし主催者が別のあり方を考えた場合はどうだろう。広報的意味合いを前面に出すのではなく、しかし教育機関だからこそ可能な展覧会のあり方を真面目に考え、企画側にも鑑賞側にも建設的で健康的なあり方を考えたとしたら、それは単なる綺麗事になってしまうだろうか。綺麗事を完徹しようとするあまり欲張りで散漫な内容になってしまうだろうか。しかしそれでも理想の形を想像する事には意味があると思う。可能な限りの理想を、オルタナティブを想像してみたいと思う。継続性をもった場であっても一時的な場であったとしても。
一時的な集いとしての場。大学であれギャラリーであれ展覧会であれ皆一時的にそこに集い、別れ、通り過ぎ、すれ違い、時間が経つとまた別の個々が集う。一見変わらず在るように見える場は常に変化の過程にある。時間によって、時代によって、持ち込まれる物によって、集う人間によって常に変化する。では本展『表層と深層|Surface and Depths』はどのような場になるだろうか。
出品作家の3人はコースの本科生として4年間のプログラムを完了しているわけではない。修士課程のみ在籍していた大河原光。映画学科から転学し現在は別の大学院に籍を置く志村茉那美。同じく日本画から転コースした白井茜。いわゆるひとつのコースで囲われ純粋培養された卒業生や学生ではなく他所からここに集いし者達である。
大河原は3人の中では一番活動歴が長く、東京在住時の2010年に都市の中に佇む墓地を写したシリーズで発表を開始。場の性質を表象する写真の力を信じながら制作を継続するが、風景をモチーフにその深層にあるものを眼差しながら、その見えにくさに写真を通して付き合ってきたと言える。過去の殆どの制作では身体を移動させその都度場と対峙してきたが、新作では自身の皮膚をモチーフとする。場に赴くのでなく場に接してきた皮膚を見ることを通して考える。現在、東京藝術大学大学院映像研究科に籍を置く志村は、過去、定期的にベトナムの戦争遺跡と思われる場を取材しそれを元にした作品を作ったことがある。志村もまた特定の場所に一時的に身体を寄せる。場の深部に潜る過程で気付く様々な史実をレイヤーとしてすくい上げ、作品の要素として構成するが、レイヤーが透明で気付き難いものであった場合それを可視化するシステム=技法を手にする必要がある。自作のシナリオを3D CGと合成音声によって映像化する近作は見えにくい史実を可視化するために必要なプロセスなのである。
白井は映像を制作して1年も経たない。恩師でもある美術教師と密に付き合うことで出会ってしまう景色をドキュメンタリーの手法で記録していく。人間の仕草や発する言葉を凝視し、その間合いや断片の中にカメラを持って分け入り、社会の深部に潜り込む方法を模索しているように思える。人権問題に関心を持つ白井は、人にカメラを向けることに躊躇しながらも、人の集う場に赴き身を置くことで見えてくる景色があることを知っている。場に身体を寄せる3人の作家。ずっとという訳ではないが一時的にそうする。時には一旦離れ再訪する。そしてその都度その場をスキャンするように解像度を上げながら更に更にと見ることに努める。見落としがないか、新たに見えてくるものは無いか、集中して見ることに努めていると、気づかぬ間に身体を逆さまに突っ込んだ状態になり、眼が深層を捉えていることがある。
一時的にその場に集うこと。当初明らかにバラバラであった者の足元に同じ水が流れてくることがある。教育はそこに立つ者の足元に、その深層に水を流すことに似ているかもしれない。ジョウロで上部から水をやるのではなく水路を作ること。水を引く者はそれを塞き止めもでき適量をコントロールすることもできる。複数の水源を利用しブレンドすることも可能である。深層に流れる水は表層に影響を与える。一時的な集いは一時的に同じ水源を共有することであり、研究や作品にはその一端を見ることができる。では水源はどこか。それは場を共にする者同士が持ち寄る思想や想いが源泉となる。深層に流れる水を想像し表層をみること。あるいはその逆を想像すること。その場がここにあることを願って。
髙橋耕平 (アーティスト、京都造形芸術大学美術工芸学科 写真・映像コース)
【主 催】 京都造形芸術大学美術工芸学科 写真・映像コース
【協 力】 Gallery PARC(グランマーブル ギャラリー・パルク)
出展作家略歴
大河原 光|Okawara Hikari
2015年京都造形芸術大学大学院修士課程修了
都市に点在する墓地や、郊外における高速道路の建設現場とその周辺など、ある特定の場所の性質に着目し、写真による記録をベースにした作品制作を続けている。近年の主な個展に「Heterotopia」2015年 KUNST ARZT(京都)、「Beyond the Landscape KYOTO」2015年 アルトテックギャラリー/京都的芸術廉价中心(京都)、など。
志村 茉那美|Shimura Manami
2019年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業
現在、東京藝術大学大学院映像研究科修士課程在籍中
現代では視覚的に認知が困難になりつつある歴史との向き合い方をテーマとして制作活動をおこなっている。主な展覧会歴に「GEIDAI BIBLIOSCAPE 2019」2019年 東京藝術大学附属図書館(東京)、「KUAD ANNUAL 2019 宇宙船地球号」2019年 東京都美術館(東京)など。
白井 茜|Shirai Akane
現在、京都造形芸術大学美術工芸学科写真・映像コース在籍中
身近に潜む人権問題を取り上げ、自己と他者の会話に着目したドキュメンタリーを制作する。主な展覧会に「満たない展」2018年 アートギャラリー北野(京都)、「SAND」2018年 cumono gallery(京都)など。