Gallery PARC[グランマーブル ギャラリー・パルク]では、2015年10月20日(火)から11月1日(日)まで、薬師川千晴による個展「絵画へ捧げる引力」展を開催いたします。
2011年に京都精華大学洋画コースを、2013年に同大学大学院芸術研究科博士前期課程芸術専攻を卒業した薬師川千晴(やくしがわ・ちはる/1989年・滋賀県生まれ)は、在学中よりグループ展などに出品を重ね、2014年に初個展『絵画碑』(Gallery PARC)を、2015年に『ハイパートニック・エイジ』(京都芸術センター)に出品するなど、着実に活動を展開させています。
薬師川はこれまで、多くはテンペラ絵具を用い、紙に絵具を置いてそれを二つ折りにするなどして転写し、対称の図を創出するデカルコマニー技法をもって絵画制作に取り組んでいます。
絵画に向かう薬師川の思考にはまず「あらゆるものから質量が失われつつあるこの世界」への危機感があるといい、絵画を作家の「表現」とするのではなく、作家が絵画を「通して」思考し、そこに何を「託す」のかという自問を抱いています。作品《絵画碑》では、まず絵画に「時間を託す」として、かつて“ 何か” であったものの集積である「土」によるテンペラ絵具とデカルコマニー技法により、画面上に現在までの“ 歴史” という時間を堆積させ、絵画をまるで「時の碑」とするかのような取り組みを見せています。
同時に「絵画とは絵具と絵具が引き合い、隣同士の色とが交わる連鎖により成り立っている。この意味において、絵画とは絵具と絵具の引力によって成り立っているといえるのではないだろうか。」とする視点から、「私は、この質量ある物質にそなわる互いに求め合う引力を作品に託す。」と思考を進め、ひとつの絵具の塊をデカルコマニーにより再び分つことで、互いに引き合う微かな「引力」を画面上に生じさせようとしています。
本展『絵画へ捧げる引力』は、こうした薬師川の思考と願いを込めた一連の作品《絵具の引力》を中心に構成しています。個々の作品に見られる絵具の動きには、かつてひとつであった物質が引き合うベクトルを見ることができるとともに、作品を特異点として過去:現在:未来へと移る時間を垣間見ることができます。また、あやういシンメトリックなフォルムには、私たち「人」の面影、あるいは願い・祈る時に「合わせる手」にも似た姿を垣間見ることができ、そこに物質世界と非物質的世界の狭間の様相を目にすることができるのではないでしょうか。
*2014年に開催した『絵画碑』展の詳細はこちらをご覧ください。
会場撮影:前谷開
あらゆるものから質量が失われつつあるこの世界で、今、絵画を通して、質量ある物質特有の〝引力〟という力について考えてみる。
そもそも引力とは、空間的に相まった物質が互いに引き合う力のことである。どんな物質も質量さえあれば、互いに力を伝え合い、引き合う力を元来そなえている。
では、絵画においての引力とは何だろう。
当たり前のことかもしれないが、絵画とは絵具と絵具が引き合い、隣同士の色とが交わる連鎖により成り立っている。この意味において、絵画とは絵具と絵具の引力によって成り立っているといえるのではないだろうか。
その絵具の引力をより純粋に引き出すために、描画技法としてデカルコマニー技法を用いる。デカルコマニーとは、フランス語で写し絵・転写画を意味し、紙に絵具を塗りつけ、それを二つ折りにしたり別の紙に押し付けることで、塗りつけられた絵具を転写し、左右対称の図を描く絵画技法のことである。
この技法を用いることにより、重ね合わされた絵具、つまり、1度1つの塊となった絵具を引き剥がし、2つに分かれさせることで、絵具の持つ互いに引き合う力を絵画により強く生じさせることが出来る。
そうして出来た作品は、人が祈る時に合わせる手に、どこか似ている。
そもそも、人はなぜ祈る際、手を合わせるのだろう。思うに、手を合わせる事により、人は〝何も持てなくなる〟事が重要なのではないだろうか。それはつまり、何かを抱える手段である手を天へ差し出し、物質世界とは離れた位置から〝祈り〟という非物質的な行為へと移行する、ある種の儀式のようなものなのだろう。
そして、1つに合わさった手をひらくと、そこには右手と左手が現れる。つなぎ合う力を〝両者〟に分かれさせることで、双方の関係が生じ、そこには、ものとものとの間に生じる引力が生まれる。つまり、引力とは物質単体では存在し得ない、ものとものとの関係性にのみ生じる〝互い〟の力なのだろう。
私は、この質量ある物質にそなわる互いに求め合う引力を作品に託す。そして、この絵具の紡ぐかすかな引力を絵画へと捧げようと思う。2015.9.23
薬師川 千晴