ギャラリー・パルクでは、2013年2月12日[火]から17日[日]まで、
「いずれ逝く夏 ─ 石井 美緒 展」を開催いたします。
石井 美緒(いしい・みお / 福岡・1987~)は、2012年に京都造形芸術大学大学院を卒業後も陶による作品制作・発表をおこなっています。本展は2012年の大学院終了制作展にて出品した《いずれ逝く夏》を中心に、新作を含むオブジェ作品により構成され、PARCの空間を活かし、自然光を取り込んだ展示は、さながらひとつのインスタレーション作品として展開します。
「私が作品に期待するのは日常に持ち込まれた非日常感です。
非日常感をもたらすギャップを作品で感じ取りたいと思い制作するのです」
おもに白土や黒陶土を使用し、生物や動物の殻や骨を表現したそのオブジェ群は、一見すると生き物の死骸や化石のような「死」をイメージさせます。しかし、冷たく硬い土の質感の中には、青色のトルコ釉やガラスを用いた、キラキラと輝く美しい水たまりのような表現も見ることができ、それはまるで「生」の潤いや輝きのような、新たな物語の始まりの印象を与えます。
本展タイトルの「いずれ逝く夏」とは、中原中也の『逝く夏の歌』から引用したものであり、この詩にたゆたうような切なさとわびしさを、生命の営みを物語るスケールで表現したいという意図から付けられたものです。ギャラリー空間を占める骨を模した大型のインスタレーションを眺めるとともに、それぞれの作品の内側の空間に目を向けた時、そこにはガラスと土による別の景色を垣間見ることができます。
外光によって異なる景色を見せるそれは、土や釉といった陶の魅力とともに、静寂の中に宿る生命のイメージをご覧いただけるのではないでしょうか。
人間はギャップに反応します。例えば、桜咲く春という季節の一日と小春日和の一日というものを見分ける際、人間はその二つの認識にギャップが無ければそれぞれがただの穏やかで暖かい日和としか認識できません。そういう意味ではむしろ人間という生き物はギャップにしか反応しない生き物です。
私は日常とのギャップとして転ぶという行為を考えます。成長するにつれてかつて子供だった頃のように転ぶことのなくなった人間は少なくないでしょう。大抵の人間は大人になってか
らは転ぶという失敗を滅多にしませんが、それだけに大人になってから万が一転んでしまった時のショックは一入です。転ばないはずの大人が転んでしまったという非日常感に日常とのギャップを感じるための衝撃、更に鼻血なんて出してしまった日には非日常感の上乗せにわくわく感さえしてきます。基本的に何かとのギャップが大きければ大きいほどそれに対する反応も大きくなります。
私は日常と非日常の間に在るギャップ、それに対する自分の反応(例えばわくわく感など)を待っています。でも出来るだけ自分は転ぶことは遠慮したく、探しているだけでは物足りないと思うのです。
私が作品に期待するのは日常に持ち込まれた非日常感です。
非日常感をもたらすギャップを作品で感じ取りたいとおもい制作するのです。
- 展覧会について -人間はギャップに反応します。例えば、桜咲く春という季節の一日と小春日和の一日というものを見分ける際、人間はその二つの認識にギャップが無ければそれぞれがただの穏やかで暖かい日和としか認識できません。そういう意味ではむしろ人間という生き物はギャップにしか反応しない生き物です。
私は日常とのギャップとして転ぶという行為を考えます。成長するにつれてかつて子供だった頃のように転ぶことのなくなった人間は少なくないでしょう。大抵の人間は大人になってか
らは転ぶという失敗を滅多にしませんが、それだけに大人になってから万が一転んでしまった時のショックは一入です。転ばないはずの大人が転んでしまったという非日常感に日常とのギャップを感じるための衝撃、更に鼻血なんて出してしまった日には非日常感の上乗せにわくわく感さえしてきます。基本的に何かとのギャップが大きければ大きいほどそれに対する反応も大きくなります。
私は日常と非日常の間に在るギャップ、それに対する自分の反応(例えばわくわく感など)を待っています。でも出来るだけ自分は転ぶことは遠慮したく、探しているだけでは物足りないと思うのです。
私が作品に期待するのは日常に持ち込まれた非日常感です。
非日常感をもたらすギャップを作品で感じ取りたいとおもい制作するのです。
石井 美緒
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いずれ逝く夏[部分]サイズ可変 |