Gallery PARCでは、京都の文化・創造活動の更なる活性化への支援のひとつとして、 若いアーティストに発表の機会を提供し、未知数の表現と多くの皆様との接点となるべく取り組みを続けています。
この度、美術作家・芝本繭子による「parts ─芝本繭子個展」を開催いたします。
現在、京都市立芸術大学 大学院絵画研究科油画専攻に在籍する芝本繭子(1986~)は、その絵画制作において興味深いプロセスを提示しています。
「私が表現しているのは、曖昧性です」と語る芝本は、描くサイズや完成形を設定しないままに「ドローイングのようなもの」をつくり、それらをパーツとして展示壁面(あるいは空間)に変形・構築・解体を繰り返しながら配置し、そこに出現した必然と偶然の産物を作品として提示します。
この「ドローイングのようなもの」とは、自らのドローイングの定義を「直感的に自己の内面を表現する媒体、または完成作品の習作」とした上で、「前者を含むが後者ではありません。習作ではなく、それ自体が作品の一部となります。そして、それは完成作品でもあり、未完成作品でもあります。」と位置づけているものです。
透過性のある模造紙や和紙に、パステルや鉛筆の線によって描かれた身体のイメージ。
展示に際して芝本は、それぞれのパーツや展示空間に時間をかけて向き合うなかで、時に糸や毛糸を縫い付けるなど手を加えながらそれぞれを配していきます。
繋げられ・離され、また重なりあうように配されたパーツは、そこに儚くも確かな関係性を垣間見せながら、「曖昧さ」そのものとして空間全体に留められます。
本展は、PARCでの現場制作を経て構成された作品群により構成されます。
描かれた線や糸を目で追う中で、いつしか空間全体に広がる作品世界を感じていただけるのでは無いでしょうか。
私が表現しているのは、曖昧性です。 現在24歳の私は、10代から20代への移行の中でオトナになるという事をより世界が複雑になるということだと思っています。 視野が広がる事で物事を様々な視点から見る事ができ、答えが複数ある事を知りました。 またその答えは、時間とともに変化し、常に不確かな要素を含んでいます。 そのような不確かで流動的で曖昧な心の動きその一瞬一瞬を留めるように制作しています。 画面に登場する身体の一部は、外的刺激を感知するシンボルであり、私たち人間は有しているが、小宇宙のように把握できないものです。 その小宇宙の中には美、エロス、儚さやおぞましさなどのたくさんの相反する事象が転がっています。 それらのものは、不可解であり不確かな永々に広がる感覚だけの世界です。 私は、そこに浮いて漂っているような気持ちで、作品を作っています。
画面のサイズを決めずにdrawingのようなものを作り、それらをパーツ化し、別の同一平面上で変形、構築、解体を繰り返し、そこから生まれる必然と偶然の産物を作品にしています。 私のdrawingの定義は、直感的に自己の内面を表現する媒体、または完成作品の習作です。drawingのようなものは、前者を含むが後者ではありません。習作ではなく、それ自体が作品の一部となります。そして、それは完成作品でもあり、未完成作品でもあります。
模造紙や薄い和紙に糸を縫い付けたり、パステルや鉛筆と言った線画材を用いて制作しています。もろい紙に糸を縫い付けることで、観る者に素材のはかなさのイメージを与え、また糸は、思いもよらぬ動きをし、その空間の空気の流れに影響します。
芝本繭子
芝本繭子は人体を表皮だけの薄く痛々しいイメージへと変換する。さまざまな透明感のある薄紙が気ままなコラージュのごとく重なり合いながら、人体のイメージがどんどんと壁面に押し広がってゆく。あたかも、終わりのない映像世界に引き込まれてゆくかのように。
薄い支持体に鉛筆や絵具で生殖器官や内臓器官などを描いているが、描き様は神経質でどのイメージも不明確であり、断片的な支持体と呼応して人体イメージもパーツに解体される。さらには、そうしたイメージは毛糸や糸の荒いステッチで有機的に繋り、傷つきやすい人間の内面を暗示する。
芝本が描く人体は、生物学的な男女の構造を援用しながら、強く堂々とした一個の人間ではなく、むしろその対極にあるような人間の脆く、儚い側面をさらしているのである。 平面的な仕事ではあるが、作品の特質をそのまま反映し、設置空間に依拠しながらも強靱な存在感を備えており、今後ますます注目すべき仕事である。
サイモン・フィッツジェラルド
京都市立芸術大学美術学部教授
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