平田剛志 (美術批評)
本公募は展覧会プランの公募審査であって、作品審査ではありません。今年も1点の作品として魅力的ものは多々ありました。しかし、展覧会プランとなると作品とプランが一致しない応募資料が見られました。
また、今回のコンペでは、絵画作品のプランを選ぶことができませんでした。これまで優れて豊穣な絵画の現在を目撃・発見する機会となってきた本コンペにおいて、絵画の不在は残念でなりません。私が見たいのは、絵画の「新しい」形式ではなく、絵画に描かれた主題の「新しさ」です。
本公募は、なにを「新たに」作るかではなく、なにを見せたいのかが問われているはずなのです。
今回の3者の入選プランは、アジアや認識・認知、「湖」など、主題は多様です。しかし、私たちがそれとなく抱いている世界やものの見方を問う、見せることに自覚的なプランでした。そして、展覧会を見たいという想像力を刺激するプランでもありました。ロバート・ヘンライは「強烈な関心から生まれない絵は、強烈な関心を呼び起こすこともできない」と書きましたが、3者のプランには、「強烈な関心」があったゆえに、こちらの関心を呼び起こしたと言えるでしょうか。展覧会がさらなる関心を生むことを期待しています。
井上裕加里「想像のアジア(仮)」
井上はこれまで一貫して東アジアの近現代に潜在する歴史認識、文化観の差異や関係性、地域性をテーマに作品を制作してきました。今回のプランは、「蛍の光」や「仰げば尊し」などの近代音楽を取り上げ、東アジア各国における受容と地域性、愛国心を読み解く試みです。応募段階で「8月15日」を踏まえたプランから、政治的な側面に注目が集まるかもしれません。しかし、井上が提示するのは「真実」でも「正義」でもなく、国家や文化という目には見えない集団や共同体の受容や排除、境界だといえるでしょう。他者・他国を排除する動きが顕在化しているいま、「想像のアジア」を通じて私たちにとって「国家」「国民」、あるいは「他者」とは何か再考する機会となるでしょう。
近藤洋平「whereabouts(仮)」
近藤は、大学で建築を学び、建築的な視点から場所や空間の「境界」のずれを生み出す作品を制作しています。今展では、金属などの素材の特性を生かしたインスタレーションのプランでした。とはいえ、そのプランは、素材の特徴や物質性を生かして重力や視覚認識の気づきを促す空間を構築する「建築」といった方がいいのかもしれません。
また、タイトルに「通り雨」という気象学的な言葉を与えることにより、素材のもつ抽象的な特性を具体的な詩情あるイメージへと変容しました。それは、一夏の「通り雨」のように、空間の質を変えるだけでなく、私たちの心理にも影響する空間となることを楽しみにしています。
松宮恵子「湖/畝を旅する」
松宮は染織を専攻し、さまざまな織りや編みの技法によって作品を制作してきました。その軌跡は、染織の多様な素材・技法を、「畝を旅する」ように「自分の指で自在に操る」ことの物質的な魅力に溢れ、その現在地点を目撃したい誘惑に駆られました。ともすれば、専門的でわかりにくい技法や素材ですが、提出資料には作品に使用する素材の断片を添付するなど、具体的、丁寧に伝える姿勢も評価されました。
今プランでは「湖/畝を旅する」として、湖の昼と夜の風景を配置し、観者の内面の「湖」を揺るがす空間の創出を試みます。言うまでもなく、古来、染織作品にはさまざまな「湖」のパターン、「型」があります。この伝統に対して、松宮がどのような畝を旅して、「湖」にたどり着くのか、その旅の報告を楽しみにしています。
勝冶真美 (京都芸術センタープログラム・ディレクター)
寄せられた31の応募ファイルはどれもそれぞれに魅力があり、審査は長時間にわたるスリリングなものでした。結果選出した3名のプランは、提案が言葉や資料で丁寧に説明され、創作の動機と作品を展示するということへの動機がきちんとリンクされていたと思います。
“Exhibit(展示する)”は持っているもの(hibt-)を外に差し出す(ex-)、という意味です。自分の作品を誰に、どのように、差し出すのか、その思考が展覧会プラン公募には問われているのだと思います。
中には、自分の作品をうまく言葉にできていないような印象をうける応募もあり、もったいないと感じました。修辞や比喩が多用された結果、核心にたどり着かないままの文章が多いように思います。テキストは“作品”である必要はありません。他者と作品を共有する場である展示プランを考えるには、まずは作者が客観的な眼で作品を視ることが大切なのではないでしょうか。
そして“資料”でみるプラン以上の衝動を私たちに与えてくれる、そんな展示が実現することを選出者の3名には期待しています。