平田剛志 (美術批評)
本年の審査も例年通り、審査員個別に提出されたファイル・資料審査を行なった後にギャラリーと審査員2名による討議によって入選プランを決定しました。応募して頂いた方々に心よりお礼申し上げます。
3年目を迎えた今回の公募審査では、応募ファイルのクオリティが着実に上っていることが感じられました。丁寧なヴィジュアル資料だけでなく、テキストの文字数が格段に増え、ステイトメントやコンセプトを通じて展覧会の目的や趣旨を伝えようとする姿勢を強く感じました。
しかし、応募プランのテキストを読むにつれ、時代や美術に対して、メランコリック、内省的なプランが多かったようにも思います。また、情報化社会に対する紋切り型の言及が多かったのも特徴でした。いま、展覧会を見ることは、日常においてポジティブな期待、愉悦を喚起させる経験・行為・欲求ではないのでしょうか。
今回選出されたプランは、結果的に具体的なひとつのもの・事象にアプローチをすることで、多角的、重層的なものの見方や多様性を創出、誘発する場を志向するプランでした。また、物質、もののテクスチュアに意識を向けているところも共通しています。タイムラインの情報に惑わされるのではなく、目の前のものの多様性、複雑さを感受し、その背後の歴史性を調べ、想像(創造)することで見えてくる手応えやリアリティこそ、いま、展覧会ができることなのかもしれません。
〈嶋春香プラン〉
「写真を見て描く」絵画は多々ありますが、リアリティの欠如や喪失、表面性をテーマとする絵画が多いなかで、嶋春香のプランは「資料写真」をモチーフに、絵筆の筆致(タッチ)を通じて写真イメージに触れようとする肉感的、身体的な内容でした。それは、絵画における視覚と触覚の関係性を問う試みとして興味深いものですが、躍動的、セクシュアルなタッチ、色彩にも魅了されました。
触れられないものに触れようとすること、近づこうとすること。「お手を触れないでください」が主流の美術界において、視覚イメージから「欲望」を活性化させようとする嶋の能動的な姿勢に感嘆しました。
〈寺脇扶美プラン〉
なんとなくクリスタルではなく、数ある水晶のなかから「紫水晶」という自身の誕生石を媒介としたことで、展示プランに具体性と現実性がありました。また、日本画の岩絵具(顔料)によって、水晶(鉱物)を描く素材論であり絵画論としても見ることができ、新たな視点を提示しています。展示においては、平面作品と紫水晶にまつわる美学的、文化的な資料展示をどのように展覧会として結晶化させられるか課題でしょうか。「雪は天から送られた手紙である」と書いたのは物理学者の中谷宇吉郎でしたが、紫水晶から送られてくる「手紙」とはどんな内容なのか、待ちたいと思います。
〈湯川洋康・中安恵一プラン〉
湯川・中安はこれまで滞在制作・発表場所の「歴史・習俗・習慣」をリサーチし、その土地で収集した素材によって彫刻を制作してきました。その制作は「豊穣史」という大きな枠組みのもと、各地で制作・発表されてきました。本プランではそれらの文脈を取り外して「再配置」する内容であり、「再生産」とも言える試みです。
固有の歴史性、地域性から生まれたヴァナキュラーな彫刻が、異なる土地においてどのような関係性を取り結ぶのでしょうか。あるいは、そもそも「彫刻」(芸術?)にとって「関係性」は重要なのでしょうか。それもまた一つの「習慣」として、考察する機会になるかもしれません。
山本麻友美(京都芸術センタープログラム・ディレクター)
自分のことを冷静に分析して言葉にするということは、とても面倒で怖い作業だと思っています。それを繰り返すことで強くなる人もいれば、擦り切れて壊れてしまう人もいるので、そんな作業を通して、今回も応募してくれる人がたくさんいたことに感謝します。書類審査を通して、空間やコンセプト、社会との格闘の跡を見つけて、多くの刺激を受けました。また、3年目を迎えたことで、この公募展の意図と応募する人たちの思いが、とてもうまく噛み合い始めていると感じました。それはPARCがアーティストと築いてきた関係性やこれまでの活動の蓄積がもたらしたものだと思います。
全体の印象としては、上辺だけを取り繕った意味をなさないステイトメントではなく、考えて正直に書こうとしてくれた文章が増えたように思いました。考えを深めていくこと、そしてそれを文章にすることは、作品を作るのとはまた別の技術が必要です。あなたのステイトメントは、本当にあなたの作品、あるいはあなたの考えに近いものですか。常にそう思いながら、応募書類とポートフォリオを見ていました。
選んだ3つのプランは、展覧会に向けてこれからの成熟や深化が大きく期待されるものです。プランが現実になった時、紙から得た予想を裏切ってくれるのではないか。そう思っています。