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Exhibition info

Gallery PARC Art Competition 2015 #02

図譜
中尾美園

Nakao Mien

2015.7.14. 〜 7.26.

Exhibition View

14 images

Statement

世界は茫漠としている。
戦争、病気、災害、倫理のない漠とした世界の中で、何をして生きようか。
しかし世界は、小さな石や、葉っぱにつまっている。
移ろい変化しながら、作用しあい、全てが響き合いながら等しく存在する。
心に映るひとつひとつに目を向けながら、内包する大きな世界を想像して遊ぶ。
未来を祈りながら、私は絵を描きつづける。

 

展覧会について

 電子書籍やデジタルミュージアムなど、ARやデジタル技術での再現性の進化は、身体や物質からかい離した空間で生きてゆく違和感を徐々に馴染んだものにしている。将来、和紙や絵具や筆を使用して絵を描くことは希少で、材料が手に入らないかもしれない。
 絵を描くことは私の日常的な行為である。写生は絵を描くための学びであり、写生した図絵は本絵を描くための手控えにもなるし、紙に描き残すことは記録でもある。
 今回の展示作品の一つに、水路に流れて くる漂流物をすくい上げ、日記のように描き留めた絵画がある。上流のある時点で水路に物が落ち、私がすくい上げるまでの物語を想像しながら、漂流物に向き合った足跡が画面に展開する。
物に内包される世界と、物を内包している世界を行き来しながら、手で描き残す日記のような絵画である。
 先日、考古資料の保存に関わる方から、発掘された土器片の洗浄作業中に粘土を成形する際に付いた古代人の指跡が、自分の指跡とぴったり重なった瞬間に、今と変わらぬ人の営みを感じるという話を伺った。
私は選んだモチーフから何かを感じ描ている。
未来の人は私の筆跡を見て何を感じるだろうか。

中尾美園

About

 Gallery PARCでは、様々なクリエイション活動へのサポートの一環として、広く展覧会企画を公募し、審査により採択された3名(組)のプランを実施するコンペティションに取り組んでおります。昨年に引き続き2回目の実施となるGallery PARC Art Competition 2015 において、応募いただいた34のプランから、平田剛志(京都国立近代美術館研究補佐員)、山本麻友美(京都芸術センタープログラムディレクター)の2名の審査員を交えた厳正な審査を経て採択された田中秀介、中尾美園、明楽和記の3名による展覧会を連続で開催いたします。本展「中尾美園:図譜」はその第二弾となります。

 

 2006年に京都市立芸術大学大学院美術研究科保存修復専攻修了した中尾美園(なかお・みえん/大阪生まれ)は、おもに日本画材を用いた絵の制作、個展などによる発表を続け、2008年の「京展」や2013年の「シェル美術賞」の入選などの評価を得ています。また2015年のアーティストインレジデンス「飛鳥アートヴィレッジ」への参加、仏画や水墨画等の制作、様々な分野の講師を招いたイベントやワークショップの開催、教室の主宰など幅広い活動を続けています。
 2011年ごろより中尾は、日常に自身が拾い・見つけた「物」を丹念に絵に描くというアプローチによって作品制作を試みています。本展会場を横断する《 洛西用水図 》は、中尾の住居の脇にある用水路に流れ来る漂流物を2015年の5月~6月の2ヶ月に渡って観察し、描いたものです。そこには春から夏にかけての草花の姿を見ることができるとともに、煙草の吸い殻やお守りなどが綿寒冷紗に寒天を引いて水面を模した画面に描かれています。また、畳部分に展示されている《 美佐子切 》は、およそ20年前に逝去した中尾の祖母が所有していた桐箪笥を開き、その中に納められていた品々を描いたものです。中尾は箪笥に納められていた祖母の嫁入り衣装や写真、着物を精密に描画し、それらはもとあった桐箪笥に納められ、一部は巻子として展示されています。
 これらはいずれも記憶(メモリー)と記録(ログ)の側面を併せ持つものであるといえますが、そこには驚くほど多様な側面が内包されていることにも気付きます。《 洛西用水図 》には用水路を定点としたドキュメントや、考現学的な視点によるアーカイブの側面を見ることができるとともに、用水路の立地(流れる場所や上流・下流の関係)には地政学や歴史的側面を、また社会インフラとしての用水路の果たす機能・役割といった側面を見ることができます。《 美佐子切 》には個人の歴史に思いを馳せる資料としての側面だけでなく、そこには桐箪笥職人の仕事、着物の織り職人の仕事、文様などに見る意匠の記録、およそ40年以上前の生活習慣を伺い知れる民俗学的な資料としての側面をも見ることは可能です。
 『上流で水路に物が落ち、私がすくい上げるまでの物語を想像しながら、漂流物に向き合った足跡が画面に展開する。物に内包される世界と、物を内包している世界を行き来しながら、手で描き残す日記のような絵画である』と言う中尾の作品には、記憶:記録:想像:美しさといった様々な因子が断片的かつ相対的な関わりを持ったままに留められていると言えます。ともすればそれは「今」において読み出すことはまだ難しく、その意味や価値を問い難いものも含まれるかもしれません。しかし、同時に「私は選んだモチーフから何かを感じ描ている。未来の人は私の筆跡を見て何を感じるだろうか。」と言う中尾の作品は、「今まで」を含む事象に目と手で触れ、それらが内包する:それらを内包する「今」を可能な限り描くことで、その曖昧な在り方を「これから」の評価と検証に向けて「描く=記す(しるす)」という行為に限りなく近いもとして見ることができます。