ギャラリー・パルクでは、2013年の最後の展覧会として12月06日[金]から12月27日[金]まで、高橋耕平による個展「 HARADA-san 」を開催いたします。
京都出身・在住の美術作家・高橋耕平(たかはし・こうへい/ 京都・1977~)は、京都精華大学で版画と写真を学び、大学院芸術研究科を2002年に卒業後 は、アーティストとしての個人活動のみならずアートユニットでの発表やコラボレーションワークなどにも精力的に取り組むほか、自主企画によるグループ展 の企画やオルタナティブ・スペース「MUZZ PROGRAM SPACE」の設立・運営など、幅広い活動を続けています。
2006年よりとりわけ映像メディアを用いた作品制作・発表に取り組む高橋は、「反復」や「複製」などのキーワードを手がかりに、同じ動作やイメージの反復 によってそこに「比較や差異」への思考を介入させ、それにより「固有」であることの定義や条件を問いかける作品を発表しています。まるで写真の様にも見え る静止した人物を撮影した映像作品や、シンクロする二つの映像の片方にのみ一瞬のズレを与えた作品などは、いずれも時間軸を持つ映像表現でありなが ら、そこでは文脈や始まり・終わりなどの定型は排除され、鑑賞者は自らの見ている対象の存在や定義を再構築する必要に迫られます。また、これらは映像表 現でありながら、高橋が設定したルールや条件を基にしたいわば「演劇的」なパフォーマンスの記録という側面をも合わせ持ち、そこに「記録・演出・アクシデ ント・編集」といった要素が意図的に混在することで、「映像」が特定のコンテクストを形づくることを回避しているといえます。
高橋の個展となる本展「HARADA-san」は、京都のギャラリー界隈では有名な存在であるアートウォッチャー「はらださん」への数ヶ月に渡る撮影・取材を もとにしたドキュメンタリーを中心に構成されます。はらださんの京都市内のギャラリー巡りの様子から、日本のアート界及び日本社会に対する提言、生活の 様子、ギャンブル、愛用の自転車の手入れ、思い出の場所への訪問、撮影者(高橋)とのやりとりなどによる1時間に及ぶ映像は、これまでに高橋の作品に見ら れた「要素の均質化によるコンテクストの不成立」から一転し、「はらださんの個人史」という生々しい文脈をなぞりながら進行します。
これまでの「演劇的」な構造から離れ、「他者のありのままのドキュメント」という形式を纏って紡がれるこの「はらださん」による「はらだ史」は、一見して「真実」 として鑑賞者に受け入れを迫ります。しかしそれが、事実を再演(反復・複製)されるなかで編集された、いわば「事実の記憶」という検証不能な物語であること や、ドキュメントいう形式が内包する他者(撮影者)の存在に思いいたるなかで、鑑賞者は次第に「真実(唯一)」を疑い(あるいは信じ)はじめるのではないでしょ うか。真実・架空・事実・演出・記録・物語など、すべてがこれまで以上に混沌とした作品を見終えた時、果たして「鑑賞者にとってのはらださん」はどのような存在となっているのでしょうか。
尚、高橋耕平は京都芸術センター「作家ドラフト2014」への入選により、2014年2月に「作家ドラフト2014 高橋耕平『史と詩と私と』展」(京都芸術センター・南ギャラリー)を開催予定。本展はそれに先駆け、その内容や構造などの一部を補完しあう構成となっています。また、本展は京都芸術センター制作支援事業のひとつでもあります。
早朝から日暮れまで山に入り柴を集め幾つもの束にする、同じ深さの溝をクワで畑に掘る、 手作業で苗を等間隔に植えて行く、傷入りとそうでない小豆を袋に選り分ける。 毎年繰り返される日本昔話さながらの農耕を横目に見ながら山間の小さな地域で生まれ育った私は、故郷を離れて生活するようになってから、農耕の様に暦に従って繰り返される行為それ自体や、繰り返しの中に生まれる差異や共通性について次第に考えるようになった。 私の制作では大抵、像と像、行動と行動、ルールとルールなど、二つ以上の事象を同じ フレームや場所に持ち込む。また自然や人間に起こるささやかな事象・事故の観察を行う。 本来個別に認識していたもの同士の共通性と差異の顕在化を通して、人や事象の固有性、 経験の一回性、つまり唯一性の所在を露にする。 それにより浮き上がる個と全体の関係、或はこの世界と私の関係について言及することが 私の興味であり制作であると考える。作品はそれら双方の関係の中を自由に行き来する いわば媒介者として制作される。
高橋耕平