現在ギャラリー・パルクにて個展「今日へと旅する / Journey to today」を開催している宮原野乃実さんに、展示作品とその周辺のお話をうかがいました。(取材日:2023年8月上旬)
ー東京ご出身の宮原さんが、京都の大学で陶芸を選択したのは何故ですか?
もともと美術系高校のデザイン科に通っていたのですが、まわりの人たちは美術が得意な人たちばかりで、デザインでは勝てる気がしないと思ったんです。けど1年生の時のデザイン概論という授業で、グラフィックやプロダクトといったジャンルの隙間に色々なジャンルがもっと細かくあって、そのひとつに陶器やタイルのデザインというものもあるということを知って、そういう隙間に行けば自分の活路が見出せるんじゃないかと思って、次の日には陶芸部に入部しました。また、ちょうどその頃にルーシー・リーの展覧会を観て、小さなボタンを様々な形や釉薬で、たくさん作る仕事がすごく好きだなと思い、それもあって陶芸をやろうと思いました。まだ16歳なので安直ですが…。
授業でも部活でも一通りろくろをやるので、最初はお皿やカップなどを作っていました。高校の卒業制作では、花瓶を作ったんですが、普通の花瓶じゃなくて、人の上半身をリアルなサイズで陶器で作りました。花瓶は手の部分だけで、手で花を握っているように見える、ほぼオブジェみたいな花器でした。なのでオーソドックスにお皿を作りたいというのとは外れたところにいた気はします。
そこから美大に行こうとは思っていて、陶芸を続けたいなと思っていました。それと一人暮らしをしたくて、東京の大学じゃないところに行こうと思っていたことから、他の素材も扱いながら陶芸もできるコースがいいと思い、京都造形大学(現・京都芸術大学)総合造形コースに入りました。
大学の頃は迷走してましたが、うつわ(器)をつくるということは思ってなかったです。うつわを作るにしても、展示をする時には、その上に食品やお花などのナマモノを置いて、腐っていくものと変わらずにあり続けるやきものの対比としてインスタレーションをしていたり。素直にうつわをつくる人ではなかったです。【*1,2,3】
ただ、高校の時の先生が半分冗談混じりに、「焼いちゃったら、やきものは一万年残る。もしも適当なものやバカみたいなもの、ゴミみたいなものを作っても、将来それが現代の(今の)地層から出てきたら今を(現代を)代表する作品になってしまう。だから気合を入れてちゃんとつくらないといけない」と話していて、その言葉がずっと印象に残っています。「やきもの」を使って時間や歴史について考えるということは、その当時からあったのかなと思います。
- 【*1】大学卒業制作 2015年
- 【*2】大学4年生時の個展 (2014, ギャラリー・マロニエ / 京都)
- 【*3】大学2年生の時 日用品や石など、様々なものを型取りして磁器で制作していた頃のもの
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ー《ざくろ》シリーズについて
今回展示してる作品はすべて大学卒業後に作りはじめたもので、卒業後に取り組んだシリーズはほぼ網羅しています。
そのなかでも《ざくろ》は大学を卒業して一番はじめにつくったシリーズです。卒業後、割とフラフラしてたんですけど、ずっとやきものに対する興味はあって、変わったやきもの、おもしろいやきものを探して骨董市を見て回るのが趣味になっていたんです。それで陶器の丸い壺みたいなのがあったのですが、それは戦時中に作っていた陶器の手榴弾だとお店の人に教えてもらいました。その時は一個3000円くらいで売っていて、当時の私にとっては高かったので、どうにか手にいれる方法はないかと探していたら、実際に落ちている場所があるということがわかり、その場所に行ってみようというところからリサーチが始まりました。すると埼玉県川越市の火薬を詰める工場の跡地近くの河原にたくさん落ちているということがわかり、行ってみると、私以外にも拾っている方がいらっしゃって、話を伺うと、「このあたりの住宅やコンビニの下にも実は埋まってるんじゃないかと言われてる場所がいくつかある」という話を聞きました。それを作品にしてみたらどうなるんだろう、と思ってできたのが《ざくろ》シリーズです。【*4】
今回展示している #79が今のところの最新作です。【*5】割れた陶片を金継ぎのように繋いていくのがおもしろいと思って、現在との関係性を表すため、最初は日用品や落ちているゴミなどと繋げてみたり、もっと雑多なものと繋げていたのですが、河原でお話した男性の話が一番しっくりきて、風景を直接結びつけるというのが面白いんじゃないかと思って、ジオラマを繋げ始めました。
- 展覧会「今日へと旅する / Journey to today」>Exhibition info.
- 【*4】《ざくろ#76》
- 【*5】《ざくろ#79》と陶片
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ー《誰かの基地》、《辿る陸》シリーズについて
偶然にも手榴弾を使った作品をつくることで「戦争」というものに直面することになりました。それまで戦争についてそこまで考えたり、テーマとして扱おうと思ったことがなかったですし、もちろん自分自身は経験していないし、身近に戦争体験者がいるという環境でもなかったので、最初はどう扱おうかというところから始まりました。その時点では、戦争に対して強いメッセージを出したり、反戦を訴えたり、悲惨な過去を伝えたりするような強い思い入れも特にありませんでした。ただ、学校でも習うし、テレビや映画でも見聞きしている。また「日本人として」という括りで語られることもありますよね。結局、どう扱ったらいいのか分からなくなり、少し違う角度、自分にとって身近なことから考えてみようと思いました。
東京湾周辺には、軍事基地などの跡地がけっこうあるんです。そういった場所をリサーチしてみたのですが、海岸沿いにあったりするので、コンクリートの施設の跡とか、基礎の部分とかが残ってる場所にいくと高潮の影響で海岸のゴミが流れ着いていたり、不法投棄された生活ゴミが散乱している場所が多くて。かつての戦争の記憶の跡の上に、現代の生活の断片が覆い被さる構造、在り方が《ざくろ》のシリーズと共通するんじゃないかと思ってつくり始めたのが《誰かの基地》【*6】です。《辿る陸》【*7】は、基地の壕とか施設の跡地で拾った碍子(電線を張り巡らせる際に使われる陶製の絶縁パーツ)を使っています。その周りに建つフェンスや壁に、電線を這わせていた様子と、フェンス沿いを歩いて海岸に降りて基地の中に侵入していく風景が重なってできたシリーズです。
- 【*6】《誰かの基地 #8》
- 【*7】《辿る陸 #3》
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ー「幽霊のいる島」シリーズについて
これは陶器の手榴弾を拾いにいったり、東京湾周辺の戦跡に足を運んでいた時期の2017年の後半に小笠原に行って、2018年にかけて制作してた作品です。戦争について扱う作品をもう少しつくってみようかと考えていたものの、沖縄や広島、長崎を題材にして自分が戦争についての作品を作るっていうのは違和感がありました。その土地が持つ歴史に対して当事者として関われないし、よそ者が自分の作品に落とし込むというのは安易にできないと思って。その中で小笠原に関しては一度旅行に行ったことがあって、少しだけ実体験があったんです。
小笠原の島々は、南洋の島々が次々と陥落していく様子を察知して本格的な被害が出るまえに多くの民間人たちは疎開していました。もちろん戦死した方々や、被害を受けた方々はおられますが、沖縄などに比べれば陸上戦やで多くの民間人が巻き込まれたり、空襲で島全体が壊滅的な被害にあったりということはなかったようです。また世界自然遺産に登録されてるくらい海がきれいで、豊かな自然に惹かれて移り住んだ人が多くて、歴史を紹介してくれるガイドさんたちも戦後の移住者が多い。軍事基地とか戦車とか戦闘機の残骸なども島にはたくさん残っていますが、それと共存するように戦後に移り住んだ人も多いんです。私がお世話になったガイドさんも移住者で、ある意味で当事者ではない軽やかな語り口で歴史を扱っていて、親近感を覚えました。そこで小笠原だったら、私でも島に行ってリサーチして、自分なりの戦争の語り口が緒として掴めるんじゃないかと思いました。
そうしてリサーチを重ねていくと、小笠原は沖縄や広島とはまた違った複雑な歴史、その島固有の歴史があることがわかりました。特に戦前からアメリカと日本の間ですごく翻弄されてきた歴史が、調べれば調べるほど出てきました。リサーチの中では米系日本人の血を引く方にも会いましたし。しかし、そうなると小笠原について自分はやはり当事者ではなかったという引け目を感じて…。それで自分なりに作品のあり方を悩みながら考えた結果、小笠原にまつわるいろんな史実や歴史が書かれている新聞などの紙媒体の記事を、手書きで写経のようにに書き写したものをオーガンジーにプリントしたものを、小笠原で拾った珊瑚だったり海辺で拾った陶片などを土台に、小笠原の風景をジオラマのようにつくった立体の上に重ねた《幽霊のいる島》【*8】という作品になりました。これは歴史を知る前と後では島の景色が違って見えたという体験を形にしたいと思って出来上がった作品です。この一連の経験が、自分が経験してないようなこと、自分の生まれる前のことを踏まえた「歴史」というものとの距離や関わり方・捉え方を考え直すことになり、「戦争」だけではなく、「私」と経験していない過去、とりわけ「日本の近現代史」との関係を探るというテーマへと移り変わって行きました。
ー タイトルの「幽霊」というのは歴史を表しているのですか?
歴史や過去の気配みたいなものです。おばけとか幽霊って「そこに何か怨霊がいる」とか「お化けがいる」と言われたり思い込んだりすると、気配に妙に敏感になったり、ざわざわしたりするけど、言われなければそんなに気にならなかったりしますよね。幽霊がいるという場所でも、時間が経つと幽霊がいたことすら忘れてしまえば、いなかったことにできる・見えなくなっていくということが、過去の歴史の扱われ方と似ているなと思って《幽霊のいる島》というタイトルにしました。
- 【*8】《幽霊のいる島》シリーズ
*8
ー《砂糖王国旅行記》について
小笠原の作品を作ってる時は「歴史を正確に扱わないと」とか「史実に沿った作品を作らないと」という意識が強くて、そこに誠実でありたいと思っていたんですが、作品ができた後に、結局当事者じゃないと過去の歴史を扱えないのか、史実に基づかないと作品として成立しないのか、と考えるようになり、一度自分の主観ありきの作品をつくりたい、史実や過去の歴史をなぞりながらも自分の主観を全面に押し出してみたいという思いが出てきたんです。
小笠原は地理的にも歴史的にもサイパンと結びつきが強くて、小笠原について調べている時にサイパンに関する記事がたくさん出てくるんです。それで、サイパンに目を向けてみると、かつて日本の統治時代があったということを知りました。後に「シュガーキング」と呼ばれていた日本の中央から来た実業家が島全体を統治し、広範囲にサトウキビの農園を作って、そこにシュガートレインという汽車を走らせていました。
サイパンについて調べていく中で、その時に学生時代に国立国際美術館でTHE PLAYの《TOROKKO: ANOTHER WAY TO PLAY》という映像作品を見たことを思い出しました。その映像は沖縄県の南大東島っていう島が舞台で、今は使われていない、かつてさとうきび畑の中を走っていたシュガートレインと呼ばれていた鉄道の線路に自分たちのお手製のトロッコを走らせるという作品だったんですけど、そのことをぱっと思い出して。南大東島とサイパンがすごい似てるんじゃないかと思い出して南大東島についても調べ始めました。
調べた結果、どちらの島もある年代では「シュガーキング」と呼ばれる日本の実業家が統治していて、さとうきびのプランテーションをつくって、シュガートレインという鉄道を走らせていたという共通点がありました。ただ事前に調べてる段階でも、その2つの島の間でやりとりとか、歴史的に関わりがあったっていう事実はありませんでした。あくまでも私の主観でこの2つの島が似ているっていうのを全面に出して、双子の島なんじゃないかっていう思い込みを歴史を参照しながら作品にできないかということを目指して、実際にそれぞれの島に足を運びました。
ー実際に行ってみてどうでしたか?
自分のこじつけが先にあるから、こじつけた自分の見たい景色、共通点を探していくんですけど、そんなに都合よくこじつけしやすいものって見つからなくて。フラットな眼差しでそれぞれの島を見にいきたいんじゃなくて、自分の思った通りのものが見たいっていう思いで行ってるからどんどん破綻して、作品として成立しなくなっていくんですけど、その無理なこじつけが破綻していくというのを作品にしてみるっていうところにだんだんスライドしていって、最終的にはなんとか私の中で頑張ってこじつけたという作品に落ち着きました。
- 【*9】《砂糖王国旅行記》展示風景
*9
ー作品としては映像なんですね?
『THE PLAYの《TOROKKO: ANOTHER WAY TO PLAY》が映像作品だったこともあり、映像にできたらおもしろいのではというイメージが先行してありました。ですが制作過程を振り返ってみて、サトウキビで紡いだ糸や陶立体、映像には入りきらなかった紙の資料なども含めて、全部が《砂糖王国旅行記》という作品を構成する要素なんだと最終的には捉えています。
映像作品に取り組むのはこれが初めてだったこともあり、最初から「こういう画が撮りたい」というのはなくて、島での滞在中はひたすらGoProカメラを回しながら島中を走り回っていました。これまでは自ら作陶したものであれ、拾い集めた既成の陶片であれ、陶を制作の中心に扱ってきましたが、徐々にやりたいことに合わせて新しい素材とかメディアにも挑戦したい、という思いもありました。
ー ZINEもありますが、これもはじめから作る計画だったのですか?
いや、映像作ってから本も作りたいなと思いました。映像をどうやってみせるかと考えた時に、いろんな角度から見れたら面白いかなと思って。映像のただの切り抜きじゃ無くて、レシートが挟まっていたりとか、自分が旅した過程を映像じゃない形で人の手に渡るような感じでまとめたいなと思いました。【*10】
ー旅行記っていいタイトルですよね。旅行記だから、何も目指さないというか。
あくまでも私の視点で捉えたものではあるので、日本人全体の史実はこうですとか、そういう言い切りじゃなくて、あくまで私の視点から提示しているかたちなので、結構私的なものなのかなと思います。《砂糖王国旅行記》も、これまでの他のシリーズの作品も、あくまでも「私」と「過去の歴史」というものが核になっているので、この旅行記的な立ち位置は、とてもしっくりきています。
- 【*10】《砂糖王国旅行記》ZINE
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*10
ー 《DRIFT》シリーズについて
もともと変わった陶片をコレクションしたい欲があり、海に行くたびに陶片を拾う癖というか趣味があって、それが止まらなくなって、気づけば修行のように、海へ行っては陶片を拾い集めてリュックに詰めて背負って帰るということを継続的にやってたんです。【*11】大学を卒業して、海がそれほど遠くない東京に移ってから、本格的に拾いに行くようになりました。
《誰かの基地》も東京湾や三浦半島といった海沿いに出かけて行くっていうのがリサーチとしてあったりして、海辺に行くときにはちょこちょこ陶片を拾ってはいて、それがだんだん止まらなくなっていって、陶片を大量に集めてしまうという流れができていきました。
東京湾なので、コンテナ船が通過していく風景が海岸から見えるんです。波に流されて陶片が流されてくるのと、同じように波にのってコンテナ船が陸地にたどり着いていくっていうのがリンクするように思えて。拾ってる時間がすごい長いので、見ているうちにリンクしてきて。流されて集まっていく様子とか。陶片もかつては誰かの生活の断片だったりして。コンテナ船のなかにもいろんなものが入ってると思うけど、私が頼んだAmazonの商品とか、そういう日常に関係するものとかもコンテナの中にはたぶん大量に入ってるだろうし、そういう意味でも重なる部分が多いなと思って。あと東京湾周辺は埋立地が多くて、どんどん積もっていって陸地ができていくっていうのもイメージとしてありました。
《DRIFT》は長い間継続して作ってるんですけど、コロナ禍で移動が制限されて、海外からのコンテナも完全には止まったわけじゃないにしても制限がかかったりするのを目の当たりにしていると、「越境」とか「たどり着く」とか「移動」とか、そういうものもキーワードとして頭に浮かんできました。日本は島国なので海岸線、海が何かを隔てる境界であるというイメージ。何かを隔てたりとか、超えていく波とか、流されてくる物とか、そういうイメージと結びつけてコンテナのこととか輸入、移動のことと絡めて、拾いながらそんなことも考えていたので、ひとつにしてみました。
- 【*11】《DRIFT》部分
- 【*12】《DRIFT #31》
*11
*12
ー チェキ(インスタントカメラ)はリサーチの記録として撮り始めたのですか?
あんまり深くは考えてなかったです。少し思い返してみれば、美術系の高校時代に写真の授業も必修であったんです。フィルムでいろいろ写真を撮って展示したり組み作品にしたりしていたんですけど、大きく焼いた写真よりも、マウントしたリバーサルフィルムを光に当ててのぞきこんだりとか、コンタクトプリント(フィルムと同じサイズの画像を一覧にプリントしたもの)の中の小さい景色を覗き込む感じがすごく好きで。大きく焼いた写真よりも好きだったんです。覗き込む感じっていうのは、ジオラマを覗き込む感じと近かったりもするし、いい具合に距離があるように思います。うまく言えませんが。
チェキに一番はまっていたのが、小笠原に行っていた時期で、今振り返って考えてみると、《ざくろ》でジオラマを作品に取り入れてみて、コンタクトプリントとかリバーサルフィルムを覗き込む感じをちょっと思い出したような気がしています。【*13】知っている景色なんだけど、サイズを変えて覗き込むような感覚で眺めるというのが、“史実は知ってるけど実際に経験してないものとの距離”というスタンスとしてしっくりくるような感覚もあったり。自分で実際に経験し直したいなと思って、現地にリサーチの旅にでかけて行くんだけれども、そのリサーチをまた作品に落とし込むのに、同じような距離感でもう一度リサーチの過程を俯瞰して見たり、そういう制作中の感覚ともちょうどあってるような気がします。
ー 展示している地図について
日本とその周辺の地図で、今展示している作品のリサーチした場所が1枚の地図におさまっています。
私は東京に住んでいるんですが、東京が中心になっている地図なんです。【*14】ひとつひとつの作品が独立してあるというよりは、制作しながら旅を続けている感覚というか、前につくった作品が次の作品の足掛かりになったりという点では、ずっと流れが続いているようなかんじなので、それを1枚の地図で表現できるというか、この地図と照らし合わせることで、今回展示している他の作品との関連だったりとかもつながりも見てもらえたらと思います。
- 【*13】ファイリングされたチェキ
- 【*14】展示風景より
*13
*14
ー 本来は、2020年にPARC主催の公募展「Gallery PARC Art Competition 2020」で発表を予定していました。3年経ってようやく実現することになりましたが、いかがですか?
公募に応募する時は《砂糖王国旅行記》をつくっているタイミングで、発表の予定もなくとにかく作品をつくっているという状態で、これを誰かに見せてみたいという気持ちがあって応募しました。まだ映像も未完成でしたが完成させたものを展示したいというプランでした。3年ほど延期になってしまいましたが、コロナもひと段落ついて、社会も動き出すタイミングで、今までの作品を振り返って展示できるのはタイミングとしては悪くないというか、結構良かったんではないかと思っています。2021年/2022年は《DRIFT》シリーズを中心に制作をしていました。なんとなく集めた陶片の関係を自分の中でもう少しいろんな角度からちゃんと考えてみようと思っていました。また、コロナがなければ、次はサハリンにいこうと思っていて調べ物をしたりしていました。
ー なぜサハリンに関心を持ったのですか?
《DRIFT》を作っていて、海が日本と外界を隔てる境界のようなイメージを持っていたんですが、陸上に国境があったらこの感覚はもっと変わっていたのかなと思うようになったんです。そこで、サハリン(樺太)がかつて日本における唯一の陸上の国境があった場所だったと知りました。その国境を越える意味合いとか、国境だったものが今は国境として機能していないということや、その手前に新たな国境線が引かれたこと、、かつての国境を越えていくことは、自分の中でも境界というものや日本の輪郭を考えるのに、色々ヒントになりそうだなと思って興味を持ちました。
ただ、行きたいんですけど、今は日本からの飛行機も船も休止中でビザをとることも難しそうです。ウクライナの戦争も国境や領土をめぐる紛争だったりするし、国境の向こうには他者がいて、お互いが違う存在だからこそそこに国境があるんだと思うと、今、国境について考えていることに、何か意味があるんじゃないかと思います。だからいつか行きたいです。
ー 作品として戦争というものを扱うことを経て、変わってきたことなどはありますか?
多くの人々が、日本という国への帰属意識も含めて、ナショナリズム的な感覚を抱えていると思いますが、私個人としてはそれはものすごくぼんやりしていて、あまり自覚できるようなことでもなくて。その捉えがたいぼんやりしたものを、自分が体験していなかった過去の歴史まで含めて「日本人」という大きな括りで扱われることに対しては、違和感を感じることも多くあります。日本人、戦争、悲しい記憶、日本人としての誇り...。直接私が経験したわけではないのになぜ私がそれらを共有しているとされるのか、という疑問があって、それを作品制作の中で自分なりに捉え直したり消化していけたらと思っています。そのスタンスは今もあまり変わっていません。対象も戦争というものに限定している意識はなくて、広く近現代の、私の経験していない歴史の歩みというものをどう捉えていくのか、どんなふうに自分と繋がっているのかといったことで、これまでも作品に落とし込んできたけど、結局私は、私の経験しなおしたことを私の視点でしか語れないなという感じはずっとあります。歴史を、日本の過去の記憶を共有している、を背負っている、という感覚はいまだにないですが、過去との繋がりを捉え直すために、作品制作を今後も続けていきたいと思っています。
- 【*15】「今日へと旅する / Journey to today」展示風景
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