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Artist Interview
中尾美園Artist Info

ギャラリー・パルクでは2015年、2018年に続き3回目の個展となる「エトランゼのまなざし、不確かなおもざし」を開催している中尾美園さん。土田麦僊の《三人の舞妓》という作品の再現模写や展示作品についてお話を伺いました。(取材日:2025年2月上旬)

「エトランゼのまなざし、不確かなおもざし」展示風景(2025, ギャラリー・パルク) 会場撮影:麥生田兵吾
展覧会全体について

今回の展覧会は、「エトランゼのまなざし、不確かなおもざし」というタイトルで、土田麦僊の《三人の舞妓》という作品の再現模写をテーマにしています。
きっかけは、2021年に滋賀県立美術館の「ボイスオーバー  回って遊ぶ声」という展覧会に出展した時に、小倉遊亀さんの《裸婦》という作品の再現模写をしたことでした。この《裸婦》は福島県のホテルにあったものですが、火災で焼失しています。そして《三人の舞妓》も同じホテル火災で焼失しています。
滋賀県立美術館の展覧会では、小倉遊亀さんの《裸婦》を再現模写する過程を作品にしていました。再現模写をするために、資料を集めて調べつつ、各地の美術館に他の作品なども見に行ったりして調査もしつつ、自分の体の中にその情報を入れてから、実際の絵の具を使って、手を動かして描きながら、身体でも理解していくということを繰り返しやりました。文字を読んで頭の中に入れていく感じと、実際に手を動かして入れていく感じや思うことっていうのにずれがあって、それがちょっと面白いんです。土田麦僊の方は、作品を見ていると、私が大学で勉強した模写の気配というか何かしら通じるものを感じて、ただそれだけ。土田麦僊を追いかけてみようと思ったんです。【*1】

ーこれはその時の《裸婦》再現模写の一部でしょうか?

はい。展覧会会場の入口に、きっかけとなる小倉遊亀《裸婦》の小さな模写を展示しました。
実際はもっと大きくてたたみ1畳分くらいはあるんですけれども、私が模写したときと全く同じ絵の具を使用しています。実物の再現模写は美術館に収蔵いただいているので、その雛形として手元に置いているものです。隣に展示しているのは、小倉遊亀さんの著作を模写したものです。実際の火事のことを小倉遊亀さんが聞いてショックを受けたということが本の中で書かれています。【*2】
心情が生々しいんですよね。作家は自分の作品を大事しているものなので。
ちなみに私は小倉遊亀さんの《裸婦》と土田麦僊《三人の舞妓》を模写するのに「再現模写」という言葉を使用しています。制作当初の姿を想定して模写をすることは、ふつう「復元模写」といわれていて、絵具の剥落や欠損部分、変色した彩色部分も復元することを指していいます。「再現模写」はオリジナルが消失してしまったものの模写に対して特に呼ばれていますが、最近ではあまり使われているのを見かけません。1949(昭和24)年に起きた法隆寺金堂壁画の焼失事件では、壁画を復元するのに「再現模写」としています。法隆寺金堂壁画の模写事業には当時、日本画の大家とされる画家が多く参加していて、小倉遊亀さんの師である安田靫彦も参加していました。遊亀さんはこの再現模写のお披露目に立ち会っていますが、再建された堂内に収められた壁画をみた感想を著書の中で、『「違う」「違う」―。「こんなじゃない」「こんなじゃない」―。』と言っています。そのところが私は面白いなと思っているんです。遊亀さんも模写の出来自体は素晴らしいとしているんです。けれどはっきり「違う」と言っている。失った姿を再び現すというのは、そういうことが起こるものなんだと、どれだけ材料を似せても、時代や思想が異なるものはどこまで行っても非なるものだと私も思います。だから小倉遊亀さんの《裸婦》を模写するときに「再現模写」としたんです。私としては「遊亀さん、はじめから違うとことはわかっていて模写させてもらいます。」という気持ちで。

  • 【*1】展示風景
  • 【*2】上:《小倉遊亀《裸婦》再現模写 雛形》、下:《小倉遊亀「続 画室のなかから」摸写》

*1

*2

ーこれがイントロダクションとしてあって、土田麦僊へ移っていくのですね。

土田麦僊はどういう人なのかと思って画集を見てると、《三人の舞妓》を描いた頃の白黒写真があったんです。この写真を描いてみたくなって、デッサンとかスケッチをしてみようと。描いていくと、違う感情が浮かんでくるというか、より理解が深まる気がして。鉛筆でスケッチしているところの写真なので、私も鉛筆でスケッチしてみようと思って、同じくイーゼルに立ててスケッチしてみたんです。

描いてると、この写真が演出されたものだとわかってくるんです。当時、イーゼルは珍しいもので、麦僊の師匠の竹内栖鳳が京都市立絵画専門学校にイーゼルを導入して、それを学生たちに使わせたそうです。麦僊は「自分は今最新のことをやっている」ということを表したかったのかもしれません。
この場所自体も、祇園の「一力」という有名な料亭で、お座敷に舞妓さんを呼んで、スケッチをしているということを、カメラマンを呼んで記録させている。ああ、演出家なんだということがわかります。そうして描いているうちに麦僊のことがだんだんわかってくるんですけど、実際、麦僊はどんな顔だったんだろうと、さらに知りたくなって、粘土で顔を立体化してみたんです。それを型にお面も作ってみようと思ったんです。【*3】

ー肌の色は、こんな色だったのですか?

白黒写真しかないので、肌の色までわからないんです。書物や関連する論文をたくさん読んで、新潟の佐渡という寒いところの出身で、割と背の高い人なので、こういう顔色をしてるんじゃないか、という私の想像です。そして、先ほどの写真を撮った当時32歳頃の年齢設定にしています。

絵皿にあるように、色々な色を作って再現しようと試みたのですが、どれだけ色を尽くして再現してみても、白黒写真しか残ってないので、本当の色はわかりません。
再現模写というのは、色をつけていく作業なのだと思うんです。つまり自分で解釈した結果が現れてくるということだと考えています。【*4】

この映像は群馬の天一美術館でワークショップをさせていただいた時のものなのですが、このワークショップでは私が再現模写をしていく過程を早回しで参加者の方にも体験いただきました。再現模写をするには、土田麦僊の情報をたくさん体の中に内側に入れて、アウトプットしていきますが、はじめに土田麦僊さんについての個人史、例えばどこに生まれて、どういうところで勉強をして、こういう作品を描いていた、ということを短い時間ですが聞いていただきました。それからどんな顔だったのか、肌の色だったのかを想像して彩色してもらい、最後に自分で作ったお面をかぶって、麦僊さんになりきってインタビューを受けていただきました。「麦僊さん今日はどんなご飯を食べたんですか」という質問から、「舞妓のモデルにはこだわりがあるんですか」ということなどを聞いて、答えていただく。参加者は同じ情報を聞いているけれど、それぞれ受け取り方も違うし、肌色を作るのに自分の手の色を見たりとか、前にいる人の肌色を参考にしたりとか、結局、今、自分が持っている情報からしかアウトプットできないというか。同じ顔、仮面なんですけど、裏側の、内側の本人がもろに出てるという。
ワークショップの最後の方は、自由な方向にどんどん飛んでいってしまうっていうのも、それはそれで面白いなと思いました。人の解釈は本当にそれぞれで、どういうふうに転がって展開していくかは本当にわからないなっていうのがみれて、面白い機会だったなと思っています。
この映像はYoutubeでもみることができます。【*5】

  • 【*3】展示風景 《土田麦僊肖像白黒写真 スケッチ》と《土田麦僊想定彩色面》
  • 【*4】肌色想定に使用した絵具皿
  • 【*5】ワークショップ記録映像「土田麦僊のお面づくり」
  • *2024年4月20日(土)に開催した、天一美術館でのワークショップの様子 Youtubeページはこちら

*3

*4

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作品05-「《松浦屏風》模写」について

《松浦屏風》という、奈良の大和文華館が所蔵されている国宝の六曲一双の屏風の私が描いた模写です。なぜこれがここにあるのかというと、土田麦僊が《三人の舞妓》を描く前にこの作品からインスピレーションというか、すごく感化されて作品づくりをしているんですね。実際に、《松浦屏風》を麦僊自身が模写をしたっていう本人の記述も、論文もあります。部分ですが、麦僊が描いた模写も残っているんですね。麦僊がこの絵のどこを気に入ったのか、私もそれを理解するために模写してみようと思いました。【*6】
最初、画集で見ていると、小さい画面だったので、あまりよい絵だとは思わなかったんですけど、実物を美術館で見るといいなと思いました。迫力がすごくあって。模写して描いていくと、感覚がまた違って、見ただけのときは迫力があるけれど、正直そんなに技術が高いとは思いませんでした。でもすごくいい。

ーこの作品は江戸時代のものですか?作者は不詳ですか?

諸説あるんですけど、江戸時代前期ですね。作者は不詳です。伝岩佐又兵衛作と言われているんですけど、人気だったようで、又兵衛風の作品がたくさん残っているなかのひとつです。麦僊も又兵衛が好きだったようです。岩佐又兵衛は、当時としては生々しい人物表現をする絵師です。実際に描いてみると、線が面白いんですよね。無駄な線が少ない。皺一つで、体のラインも表現しているっていうか。麦僊は必然な線とか簡略化された線というようなことを言っています。あと写実的な陰影をほとんどつけていないのに、本当にこういう人物が居たんだろうなっていう実在感があります。麦僊もそういうところに興味が湧いたのかもしれません。

そして、着物の染織の華やかさや絞り模様の美しさとマチエールも興味深いです。絞りの模様のところは絵の具がすごく盛り上げてあったので、マチエールをつくっている感覚が油絵のようでもあるし、日本画の絵の具でもそれぐらいのことができるんだという再発見に繋がったんだと思うんです。
茶碗を持っているこの女の子も《三人の舞妓》(大正8年)の真ん中の子と同じポーズなので、参考にしていると思います。また、大正5年にも全く違う構図で《三人の舞妓》の絵を描いているんですけど、そのときは《松浦屏風》のトランプをしている女性2人の部分を参考にして描いています。

こちらの壁面には、麦僊が《松浦屏風》について書いたテキストが掲載された雑誌を模写したものを展示しています。松浦家の奥座敷にこの屏風を出してもらって模写をした時に、そのときあまりの美しさに恍惚とならずにいられなかった、ということなどが書かれています。【*7】
その横に展示しているのは、私が実際に《松浦屏風》を模写しながら、気になったことなどをメモ書きしたものです。【*8】

ー麦僊は模写を日常的にしていたのですか?

麦僊に限らず、当時の画家はデジタルカメラもないですし、記録媒体がないので手控えとして持ち帰るために小さいスケッチブックに模写や写生をしていました。
物事を理解するのに、その方が深度があると思っています。写真で撮ってあとでいつでも見返すことができるのもいいのですが、深く入ってこないので思考が熟成されなかったりします。模写をする方が私は頭に入るし、その情報が他と繋がって別の考えが生まれたりとかするので、手で動かして頭に入れるというのは共感しているところではあります。

ールノワールに関する記述もありますね。

そうですね。例えば、この当時「白樺」っていう雑誌があって、西洋絵画の図版が白黒やカラーで載っていたのですが、そういうのを漁るように見て、海外の絵を取り入れていたと思います。「白樺」は当時の作家にとってはバイブルのようなものだったようですが、ルノワールもそういう雑誌などで見たのではないでしょうか。

  • 【*5】《《松浦屏風》摸写》
  • 【*6】《土田麦僊「《婦人髪を結ぶの図》解説」模写》
  • 【*7】《《松浦屏風》鑑賞と模写のメモ》

*6

*7

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作品08-『小説「土田麦僊《三人の舞妓》再現模写」(作・朗読:中尾美園)』について

麦僊がどういう人物だったのかっていうのを、像としてくっきり具現化しようと、私の頭の中に入れてくために小説を書きました。歴史小説を書く人は、その人物だったらどこをどう判断するかということが自然にわかるようになるまでキャラクターを作りこんでから書く、という話を聞いたことがあります。
それで、自分も小説を書いてみたいなと。そうしたら麦僊がすっと頭の中に像として現れるんじゃないだろうかと思って小説を書いてみて、それを実際に自分の声に出して読んだのがこの作品です。展覧会場ではスピーカーから音声を流しています。

ー小説はどういうストーリーなのでしょうか?

麦僊が《三人の舞妓》を描こうと思い立って制作していくという話です。 どういうふうにこれを描こうと思ったか、どういう体調であったか、とか。あとはどういう絵の具を使用して...というような、麦僊の思考や行動の流れを私がトレースできるような感じで書いています。

ー視点は麦僊の視点、麦僊の一人称なんですね。

一人称ですね。私の目を通した麦僊の視点で。

ー小説を書いたのは初めてですか?

初めてです。小説の書き方についてYoutubeで調べたりしました(笑)

(作品09の壁)《田中日佐夫「戦後美術品移動史」模写》について

美術史家の田中日佐夫さんが書かれた『戦後美術品移動史』という文章なのですが、《三人の舞妓》が売られて、火災事故で消失するに至る経緯がよくわかる資料なんです。偶然見つけて、これは描かねばと思って模写しました。【*9】生々しさや驚きもある内容ですが、作家として、作った作品にこういった未来があり得て、それは珍しいことではないということも考えました。

  • 【*9】《田中日佐夫「戦後美術品移動史」模写》

*9

(作品09の壁) 大下絵とスケッチについて

《三人の舞妓》を再現模写するために作った大下絵なんですけど、原寸大に引き延ばした骨描きの、線だけの下絵です。この大下絵を使って、本画を描いています。そして使用後の大下絵に描きながら気づいたことを、私が思い浮かんだことを書き込んでいます。描くことでしかわからないような気づきを書き留めておこうと思いました。【*10】

ーこちら(壁の左側)が大正5年作の《三人の舞妓》のスケッチですか?

そうです。大正5年にも《三人の舞妓》を描いていますが、それを描くためにスケッチした土田麦僊の素描を、中尾が模写しています。
同じくこちら(右側)が大正8年の《三人の舞妓》です。【*11】

ー文字の模写は?

麦僊の人物像を知るために、字がわかるものを探しました。字は人の性格が表れると思っているので。他の小作品でみつけた日付とサインです。あと京都市立芸術大学附属図書館に麦僊の画集があるんですけど、それが著者(麦僊)寄贈のものだったんです。そこに麦僊の自筆の文字があるのを見つけて、それも書きました。上手ですし、几帳面だけど、少し遊びもある。バランス感覚がすごく良くて、絵として字を見ていますよね。【*12】

ー ルノワールの模写があるのは?

麦僊本人も著述にあったように、ルノワールの女性像が好きだったようです。麦僊の描く女性像は丸顔が多くて、私はルノワールの丸顔とも通じるようにも思いました。また、ルノアールの死後ですが、旧宅にまで行って息子さんから絵も購入したぐらい好きだったようです。どういうところが好きだったのかを知りたくなって、小さな女の子を描いている絵を職場の休み時間などに、色鉛筆で描きました。すると、色の使い方がうまくて、ルノワールが愛される理由もわかった気がしました。どこまでいっても暗いところがなくて、すべてに色があるんです。

  • 【*10】《土田麦僊《三人の舞妓(大正8年)》再現模写のための大下絵》
  • 【*11】スケッチの貼られた展示壁
     左:展示壁面左側《土田麦僊《三人の舞妓(大正5年)》素描模写》、《田中日佐夫「戦後美術品移動史」模写》、
     下方にはルノワールの模写《ピエール=オーギュスト・ルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》スケッチ》

     右:展示壁面右側《土田麦僊《三人の舞妓(大正5年)》素描模写》
  • 【*12】《土田麦僊 筆跡模写》

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《三人の舞妓》再現模写について

今も展覧会場で公開制作してるんですけど、2~3年かけてインプットしたものを今ここでアウトプットしていっているという状況です。とても大きいサイズで、画集で見てた感じとは全然違います。原寸大で再現模写をして良かったと思います。【*13】

ー《三人の舞妓》とあるけれど、3人の絡みや関係性はないですね。

モチーフとして見ているのでしょうね。 麦僊は、モデルの舞妓を心理的に理解しようとは思わないで、洋画家がリンゴを並べて見たときのような心持ちだというような文章を残しています。なので、この絵はセザンヌのような大きな三角形のみえるような、視線がぐるぐる円環して回っていくような感じにしているんですよね。
そして、正面を見ている女性が、絵を見ている鑑賞者側へふわっと目線を投げかけてる。だから、画面の空間がこの絵の中だけで止まっていない。画面の中で世界を閉じない。麦僊の絵は、他の絵でもそういう構図上の工夫が見られます。

ーこの絵の下絵は存在してるんでしょうか?

下絵は数多くあります。ただ最終のバージョンの大下絵は見つかっていません。途中の大下絵の一部は残っています。
本画は火災で燃えてしまっていますが、土田麦僊の画集のほか、偶然にもフィルムが見つかって、その画像をデータでお借りすることができたので、それらを参考にしています。そもそも焼失したのが1969年、それより前に撮影されたフィルムなので、劣化して画像が非常にぼやけていました。そこで複数の画集の図版も参考にしていますが、CMYKなのでフィルムと違っていたり、印刷物の網点が邪魔をして画像がぼやけてみえました。ぼやて見えた部分の模写には私の解釈や想像の部分が入っています。かつ、絵絹は木枠から外すと、縦方向に縮むんです。その縮みを計算して数%縦に伸ばしているので、画集の画像よりは少し縦に長い、少しずれたものを展覧会では皆さんに見ていただいています。

だから、本物に近いけど本物とはちょっとずれたものばかりが並んでいるっていう状況なんです、この展覧会空間って。

こちらには作業机があって、模写をするためのサンプル、彩色のサンプルを置いています。【*14】
京都市立芸術大学の保存修復専攻のグループが、麦僊の過去の作品を科学的な調査をしたことがあって、そのデータも参考にさせていただいています。できるだけ当時、この絵の具だっただろうというのを推定して使うようにはしています。それは元の絵に対する尊敬の念を崩したくないからです。失くなっているものに対しては真摯に向き合い、同じもので再現したいと思っています。それでもずれはあって「違う」のですが。

  • 【*13】《土田麦僊《三人の舞妓》再現模写》
  • 【*14】模写をするためのサンプル、彩色のサンプル

*13

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伝【真作】土田麦僊直筆素描「舞妓」について

麦僊の書籍をヤフーオークションで探している時に、素描がオークションに出ているのを見つけました。それで落札したものが『伝【真作】土田麦僊直筆素描「舞妓」』です。出品者が売り文句で付けた名称をそのまま引用しています。
真作かどうかはわかりません。実際に届いて現物を見てぱっと見て、偽物だと思ったんですけど、マイクロスコープとかで表面を見ると絵の具だったことと、裏に貼っているラベルも美術館で調査しに行ったときのラベルととても似ていたので、本物の可能性もあります。

ただ、ぱっと見たときに「うーん」と思ったんです。すごく簡易な額に入っていましたし。それに麦僊のものって数が多いし偽物かもわからない。それで、その落札した時の携帯の画面を模写してるんですけど、この私の携帯のこの画面のこのひび割れの方が本物で、リアルなのはこっちだなと思って。どっちが本物かなんてわからない、自分次第というところもあると思って、こういったことをしてみました。【*15】

この空間は本当に本物が何一つない。でも私が体を動かして結果的に、形になって現れているリアルなものとして展示している。
私としてはこっちの方が自分の実感してきた痕跡で、リアルな本物としてあるんです。

ー会期終盤に作品「(私)回想録ー2月5日について)」が追加されました

画集をながめていると、失われた作品のキャプションに「(焼失)」という表記を見つけることが時々あります。私は(焼失)の言葉だけでは物足りなくて、どんなことが起こったのかを知りたいと思うんです。どんな場所でどのような状況で消失したのか。
《三人の舞妓》は1969年2月5日の火災で焼失していますので、私も同じ時期に現地に行ってみたいと思って、展覧会会期中の1月末に火災があった福島県郡山市を取材しました。駅前の広い土地を再開発して、地域の物産店や、公民館、図書館、JA、役所の支所、フットボール場などが入った新しい施設が立っていました。2018年にできたそうですが、以前は長い間更地だったそうで、隣接する土地は更地でした。当時のことを知っている人の話を聞きたいと思って、散歩をしているお年寄りに話を聞いたり、人づてで当時のことを知っていそうな方にインタビューをして、お話を伺うことができました。火災から随分年月が経っているので、人に聞いたことがある程度という方が多かったのですが、火事のことは皆さんご存知でした。お一人だけ、どんな絵だったかは覚えていないが、絵が飾られていたことを覚えている方がいらっしゃいましたけど。あと、この地域の風の強さと、火事で飛んでくる火の粉が怖かったということをおっしゃる方が多かったです。お話を聞きながら、私も舞い上がる火の粉が思い起こされて、展示作品にも火の粉を描き入れることにしました。【*16】

  • 【*15】左:《AQUOS携帯[SHARP SHG03]模写》、右:《伝【真作】土田麦僊直筆素描「舞妓」》
  • 【*16】会期終盤に追加された作品《(私)回想録ー2月5日について)》

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展覧会タイトルについて

エトランゼは「異邦人」という意味で、大正5年に発表された「野呂松人形」という芥川龍之介の短編にもこの言葉が出てきます。その一節をDMにも掲載しました。
野呂松(のろま)人形は、土田麦僊の出身の新潟県佐渡島の人形芝居に使われるもので、小説の中の主人公は人から誘われて、その野呂松人形を見に行きます。そして、その素朴で前時代的な人形を見て、それを「étranger の感を深くした」と書いています。時代が変わると、人の感覚も変わって、海外の遺物をみているような目になってしまう。私も街の中で舞妓さんを見ると、現代の人ではないような気持ちになることがあります。土田麦僊も100年ほど前の人なので、文献を読んでいると、私にとっては「エトランゼ」のような男性でした。つまりタイトルの「エトランゼのまなざし」とは私の視点のことで、「不確かなおもざし」というのは、麦僊のおもざしが結局のところはっきりとは分からない、という意味をこめています。【*17】

ー 次の展開について

火災では、《春の海》という麦僊の初期の頃の作品も燃えているので、お客さんから「次は《春の海》をやってみて」という声もいただきました。
普段の私の作品は、女性の嫁入り道具や、しめ縄などの習慣であるとか、解体される個人の家のあり方などを取り上げてきました。今あるものが将来どう変化していくのか・変化しつつあるのかっていうことに関心があります。麦僊の作品も、今回の展覧会の作品も、失くなってしまったものが今どう解釈されているのか、その解釈がどう変化していくのか、ということを扱っているので、今までやってきた仕事と地続きだと思っています。今後、そういったテーマに合致するものが見つかればと考えています。

  • 【*17】上:舞妓のスケッチ、下:《土田麦僊肖像白黒写真 スケッチ》

*17