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Artist Interview

ギャラリー・パルクとオーエヤマ・アートサイトを会場に、個展を開催した山添潤。石彫を中心にした約20年におよぶ取り組みをふりかえりながら、今回の展覧会についてお話を伺いました。

(取材日:2022年11月上旬)

「きざまれたもの からみあうとき 山添 潤 石彫 2004 ─」展示風景(2022, オーエヤマ・アートサイト)

ー今回の展覧会は八木(オーエヤマ・アートサイト)とパルクでの二会場になりました。最初は八木で、という話でしたが、後からパルクでもやろうということになったんですよね。  

パルクでもやろうという話になったのは、今年の6月ぐらいだったと思います。嘘やろ、と思いましたね...。

もともと旧作を中心に展示しようと考えていたのですが、二会場でやるなら、これまで京都と関東で発表してきた作品を回顧展的にまとめて出したらどうだろう、と打診したらそれでいこうということになりました。
旧作でも展示は1回きりという作品がほとんどだったので、この際お披露目したらどうだろうかと。ちょうどいい大きさの空間で、この場所(八木会場)を見た時に「この作品をここに置いたら」というのが想像できたので。どれをどこに置こうかというよりも場所が「置いてくれ」という感じでした。

 

 

オーエヤマ・アートサイトでの展示作品について

ー《刻 2004》【*1】は20年ほど前の作品ですよね。

そうですね。手で彫り始めた頃の作品です。太い線は、ノミ跡なんですよね。まずは直方体の大理石があったんですが、それをコヤスケという石を割る道具であらかた角を落としてやるんです。ざっくりと形が出たら、その跡をノミで彫っていくんです。このノミ跡とノミ跡が重ならないように、全体的にまず剥いてやる。
ノミの力が内側に残り、それに対してコッパとなってはぜる力が外へと向かう。その外へと向かった力をもう一度内側に戻すために、平タガネを使って覆っていっている。そこから今に続く作品が始まっているんです。
このノミ跡は自分の力の痕跡じゃないですか。はぜた石の力があって、それすらも一回内側に閉じこめようと、自分の力で。それを隙間なくやってやれば、覆えるんじゃないか。って思ったんですね。それでやっていくと丸みがついてきたりして、気づいたら有機的なカタチになっていたという感じです。

ー《刻 点 2006/2022》【*2】は正に丸くなっていますね。

この作品は2006年にノミの先を石の中心に向けて点を打っていったんですね。剥いているというかだいたい等間隔で全体を彫って、その状態のまま、今年までビニールをかけて置いてたんです。今回の展示が決まったので、その跡を平タガネで放射状に全部彫っていきました。これで完成。なのでこれは2006年から今までの時間のブランクがあったりします。

ー2006年の時点ではそれで完成していたんですか?

その時はそれでいいかなと。いつ完成させてもいい、という心持ちになっていたのかもしれない。

  • 【*1】《刻 2004》
  • 【*2】《刻 点 2006/2022》

*1

*2

やわらかい石、かたい石

ー素材はどのように選択されてきたんですか?

2003年頃までは全部機械で彫っていたんですが、それを一度全部ちゃらにして石を彫るとは、ということを考えて、やっぱり手で彫ろうと。その時にかたい石より柔らかい石の方が楽やろうとも思ったし、かたい石でやろうという意識は最初なかったんやけど、彫っていって気づいたのは、自分の力を石に残したいのだけれど、削れていく意識の方が強くなっていって。「留められない」というか、崩れてしまうというか。かなり力をセーブしてやっていました。これではなんだか弱いなとなって、もっと確実に自分の力を伝えて残すにはどうしたら良いか、となった時に、ノミの先をつぶしてかたい石でやる方が、よりもっとぎゅうぎゅうに自分の力をこめられるのではないか、と思ってたのかな。

ー《刻 2004》は初期だからやわらかいんですね。

すごくやわらかい。ノミを入れる方向によってはずるずるっと削れてしまう。
要はこの作業を延々続けていくわけですけど、おのずとこういう形になっていく。【*3】

《刻 点 2006/2022》のように、点で打っていくとノミ跡は点なわけです。それに対して放射線状に、というようになっていっています。こういうことをやっていくと最終的には球に近づく。楕円になって球になって。そうなると、じゃあそこからどうなるかとなって、煮詰まるんですよ。

なので、《石の軀 I 2009》【*4】ではちょっと自由になりたくて、カタチを動かしたくなったんです。この作品は2009年に参加した展覧会「アートコートフロンティア」(Art Court Frontier 2009 #7)に出すために制作したのですが、この時初めて御影石をノミの先をつぶして全体を叩く、というか刻んでいきました。

ー先をつぶしているんですね。尖ったノミで彫られてるのだと思ってました。

ノミの先を削ってつぶして平らにするんですよ。【*5】そしてこれを使って叩くわけです。延々こうして刻んでいくんです。
その前段階はバーンと割るんですが。昔の石垣の石によく楔(クサビ)の後がついているんですが、そういう鉄の楔を入れて叩いてやると、スパーンと大きく割れるんです。それであらかたカタチを出してやって、そのあとノミでエッジを斫(はつ)って、だんだん丸みをおびさせていくわけです。そのあと、ノミの跡も全部ひっくるめてこれで潰していくというか。これを延々続けて、気がついた時にはこうなっているという感じなのです。要は自分の力を全部押し付けていくような感じ。

  • 【*3】平タガネで刻んでいる様子
  • 【*4】《石の軀 I 2009》
  • 【*5】先を潰したノミ(右)

*3

*4

*5

ーステートメントにある「石の表面に押しつける」という意味が、今しっくりきました。

具体的にそういうことなので。「びしゃん」という道具があって、それは先がとんがったピラミッド状のものが16個ぐらいついているんですが、叩いていくとこういう感じにはなるんだけど、崩していってるんですよね。定着していないというか、自分の力が。そうではなくて、完全に一打一打押し込んでやる意識で。

大きい石の場合はノミだけで打っていっても全然カタチなんて変わっていかないんですね。じゃあ、「矢」をつかって、バーンとはぜるように割っていく。自分の力だけじゃなくて、石の力も借りつつ、半々というか、そういう力でスパーンスパーンと割っていったら効率よくカタチが変わってくれたので。【*6】【*7】変わったものに対して、今度は自分の力を内側に向わせる。より確実にするためにノミの先を削ったりしています。

そこは頭で考えているというよりは、やっていった時の感触。より確実にするにはどうしたらいいか。手の感触でやり口を変えていっている気がしますね。石がやわらかい場合はどうするか、かたい場合はどうするか、その場でやっていっていると思う。僕の場合は手がどうしても先行するので。行為というか。その行為をやっていくうちに徐々にやり口が変わっていくというか。

ーやわらかい石とかたい石というのは感覚が違う感じがしますね。やわらかい石を触っている時はしばらく同じ石を彫っていたんですか?

そうですね。最初はずっと大理石。まさか御影石で《石の軀》のようなことをやると思っていなかったので。だってかたいやん、と。でもかたくないとあかんと思ったんよね。

ーそれはなんでしょう。やわらかい石だと一方的な感じがしたのでしょうか。丸くなっていく一方向に集約されていくような。

そうそう、やわらかいがゆえに、自分のやり口でやれることが限られてくるので、なんか物足りない気もしたし。御影石(花崗岩)と大理石って全然違うので。大理石は石灰岩なので生きたものが固まってできた石灰系。御影はマグマが固まってできたものなので、成り立ちも違う。何より手で返ってくる感触が違う。《刻 2004》は削っているという方が強い。刻んではいるけど。

ー「削っている」と「刻んでいる」?

その違いかな。これをやり始めた頃はそんなふうに思わなかったけど、「刻」というタイトルにもしているし。でもどんどん大きくなってかたくなって、というのがあると、大理石じゃ物足りないものがあったりして。

ー光で見え方がすごく変わりますね。

意識的に有機的なカタチをつくろうとしているわけではないんですけど、行為の集積がそういうふうにさせるというか。

で、これが点になって球になって...で軀になって。軀は、今回の「雨引の里と彫刻展」に出品しているやつ【*8】で10個目になるのかな。大小あわせて。

  • 【*6】制作風景:矢で石を割る
  • 【*7】矢
  • 【*8】「雨引の里と彫刻 2022」展示風景
    《石の軀 2022》黒御影石 / 94×123 ×h.250cm

*6

*7

*8

野外展示の経験

ー「雨引の里と彫刻展」【*9】は野外での展示ですよね。ギャラリーのような展示空間とは全く違う環境ですがどのように取り組まれているのでしょうか。

野外の場合は、例えば雑草が生えていても枯れるし、動いているもの。ものすごくその周りの状況が変わるから。雨引での展示はその状況をある期間観察して、ここへ何を置くかということも考えないといけないし。野外は圧倒的に周りの環境が強いので。でもおもしろい。
長年、雨引の展示に取り組んできたから、対応力じゃないけど、場の見方がだいぶ変わってきている気がします。

ー雨引の展覧会は、手で彫り出してから参加されたのですか?

いや彫り出す前からだったと思う。それで、そのいろんな人に会うじゃないですか。もう10歳も20歳も上の人で、経験値が違う人も同じ出展作家として。参加した当初、自分は30代前半。50代ぐらい、今の僕ぐらいの人がいるなかで、全然こちらは子供だったわけで。必死で追いつこうとしていた。ちょっとそのへんで頑張ろうとしていたところがあったかもしれません。話にもついていけないから。彫刻の話をしてもらえないというか。「お前なんかわからへんやろ」って。実際わからなかった。
そういうのもあって、ちゃんと彫ろうって思うようになった。形だけの仕事じゃなくて、ちゃんと先につながるような。2004年から意識してやりだして、それで今、2022年があるという感じ。そういう時の作品をとっているということは自分にとって大事なことなんだと無意識に思ってたんよね。

  • 【*9】《石の軀 2022》「雨引の里と彫刻 2022」展示風景

*9

旧作について

ー2003年以前はどんな作品を制作されていたのですか?

けっこういろいろやっていましたよ。思い切り直線的な、とか思い切り曲線的な、とか、線残す、とか。【*10】【*11】

機械でバリバリやっていた。その頃から何か石の中というか、内部を見たいという意識があったんやね。グラインダーで全部削っていました。それが2003年まで続くわけですよ。

それで石の中にどんだけ入りたくても入れない。要はどれだけ内へ内へと削っていっても結局は石の外側を削っているだけで、本当の意味での内部には入っていけないという。じゃあ内側に入れないなら、どう内側を感じることができるかと考えました。

外側を全部刻んでやることによって内側を感じることができるというか、皮膚をつくるようなものです。皮膚を全部つくって覆ってやると、内側の内臓が見えてくるかもしれない、みたいな意識になったんですよね。そうやってできた作品が、《刻  2004》につながります。【*12】

その後、2013年、16年とPARCで個展【*13】をしましたが、移転前のパルクはエレベーターも無かったので、人力で上げられる重さでっていう制約のなかでやりましたね。

 

2017年に川越美術館の個展で展示したものは、今パルクで展示しています。 「雨引の里と彫刻」展は、ほぼ隔年開催されていて、2001年から毎回参加してきました。

《石の軀 2019》【*14】も雨引で展示した作品ですが、手で彫ったなかではそれまでで一番大きなサイズに挑戦しました。(現在は《石の軀 2022》が最大)ノミの先を究極にビンビンに尖らせて、細かいノミ跡の集積みたいな。近くで見ないとわからないけど。丸一年かけてこれしかつくらずにやって、果てました。もうしんどくなって。1年も一緒のことやってると、やっぱり違うこともやりたいなと思って、《きざみもの》に至るわけです。

  • 【*10】《Naked 2001》2001, 黒御影石 / 撮影:成田秀彦
  • 【*11】《Naked 2002》2002, 大理石
  • 【*12】《刻 2004》を発表した個展 (2004, Gallery 4GATS) / 撮影:山本糾
  • 【*13】ギャラリー・パルクでの展示記録>Artist info.
  • 【*14】《石の軀 2019》雨引の里と彫刻2019(茨城)
    黒御影石 / 96 × 112 × h.225cm / 撮影:斎藤さだむ

*10

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*12

*14

ー《きざみもの》【*15】はそれまでの作品とがらっと変わりましたね。

それまでは、カタチ全体を動かしながら制作してきたのですが、カタチを決めて、「力をどれだけこめることができるか」ということを試したいと思ったんです。それで、樽型が一番モノの容器として良いのではないかと。四角いものっていうのは角が欠ける。円筒形であれば、力が留まりやすいと感じて、この樽型にしたんです。

それと《きざみもの》はね、モノとしてどう、というよりは、自分の居場所とか立ち位置、その辺の関係を自在に変えられる。今回なら時間やし。時間をどう表現するかと、そういうふうにもっていける。モノのカタチだけじゃなくて置き方、並べ方で物事の在り様をいろいろと変えられる装置みたいな感じ。今回はそれを《石の軀》と、《きざみもの》と、「塊の形 」【*16】、その3つのことを同時に展示できたのですごく良い機会になった。根底ではつながってる。そういう意味で自分の中でおもしろいなと思ってます。

今回の展示では、八木会場(板間の部屋)で小さなサイズの《きざみもの》を配置しました。【*17】【*18】【*19】この場所を見たときに、「時間」というものをすごく感じたので、「円環」や「水平」「垂直」といった時間軸のイメージで配置しました。この場所が作らせてくれているという感じでした。

ー手で持てるサイズの石彫ですね。[m@p]meet @ postプロジェクト(2020)に参加していただいた際にもこれくらいのサイズで制作していただきましたが、その作品と関連していますか?

[m@p]で取り組んだことがいきているのは確かです。それまではあまり小さい作品をつくることがなかったのですが、手のひらに乗る大きさというのは、それはそれでおもしろいなと。今までは大きくてなんぼと思うところが結構あったので。小さいのはその模型というか試作、きっかけをつくるためにつくっていて、でかいのどーんという感じでしたけど、それとは全然別の考えで、小さいものとしてつくる喜び、楽しみを教えていただいた。いいきっかけになりましたね。

 

※[m@p]meet @ post プロジェクトで制作された作品は、現在個別に取り扱っております。>ONLINE STORE

ーあの空間に流れているのは何の音ですか?

石を彫っている音です。あの部屋は時間がテーマなので、石を刻んでいる時間を聴覚的に表したいと思いました。本当はばあちゃんに小学校1年の入学式にもらった時計の音でもいいかなと思ってたんやけど...。1年間録っていたわけじゃないけど、春、夏...とランダムに録っていて、それで1年という時間を感じさせることができればと。

  • 【*15】《きざみもの24》《きざみもの25》(トキ・アートスペース / 東京) / 撮影:山本糾
  • 【*16】「塊の形 」《work 2016》
  • 【*17】《きざみもの -円環のとき-》 2019 - 2022 黒御影石
  • 【*18】《きざみもの -垂直のとき-》 2022 黒御影石
  • 【*19】《きざみもの -水平のとき-》部分  2022 黒御影石

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*18

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ドローイング - 平たい彫刻

ー板間の部屋には《きざみえ》(ドローイング)【*20】も展示されています。これはどのように制作されているのですか?

基本的にドローイングは彫刻の延長にあります。石は実際ハンマーとノミできざむ。それを平面に置き換えるという意識で、平たい彫刻という意識。絵を描いているという意識はないかな。薄い彫刻。痕跡、時間の集積やし、行為の集積やし。石と鉛筆と紙という素材は違うけれど、やっていることは底辺では一緒という感じですね。

ー今回展示している《きざみえ》は2019年以降のものですが、ドローイングも2004年頃から始められたのでしょうか?

2005年か2006年ぐらいだと思います。冬場は日が暮れるのが早くて夜の時間が増えるので、暇なわけですよ。その暇な時間をいかにして過ごすかということもあったりして。
夏場はやらないんです。冷房が嫌いなのと、汗で紙が汚れやすくなるので。冬場に暖房をかけて、湿度を一定にしてやる方がいいんです。11月ぐらいから始めて3月ぐらいまで半年間ほど。早めに起きて、8時ぐらいから石を彫り始めて、昼になって、また1時すぎから夕方まで彫って、真冬なら夕方4時ぐらいで終えて、ちょっと休憩して、6時ぐらいから9時までドローイングを描くというルーティンでやってきていますね。たまに休みますが、毎日やっているような感じです。ここ数年は特に。
どこで発表するとかそういうことも決めずに描くんで。たまったら額装して「ここに出せるかな」と考えたり。パルクで展示している大きなドローイングは、今回初めて全て並べています。【*21】

  • 【*20】《きざみえ ─ 時の環 2019 ─》 2019 紙、鉛筆 h500×w500mm
  • 【*21】ギャラリー・パルク展示風景

*20

*21

約20年間の取り組みを振り返って

ー一環して石を彫ってこられたわけですが、力の「留め方」がちょっとずつ変わって来たように思います。

彫刻に対する自分の考えが変わってきましたね。むかしは主にカタチに捉われていたけれど、それがどんどん変わっていった。写真に写ってないものはもう壊してたり。それでもいろいろ作ってはきました。

ー《石の軀》【*22】は、どのような感覚で制作し始めたのですか?

内側から湧いてくるようにどうしたらできるのかとか考えていました。それは外側のアプローチ、反発から出てくるのかなとか。

ー石側の力を感じるということでしょうか?

反発するやない?粘土やったら打ったらズボって入っていくだけやから。でも抵抗があるということは反発してるわけやない?だからそのやりとりで、もっとこっちに向かってくるものにできる可能性があるのかなと。
グラインダーとかで削って形だけ作っててもこうはならないのかなと。面倒やけど一打ずつ打ってやってその連続で残るもの。
自分が打っていくときの密度みたいなのが部分的に出て来て、それが気持ちよくなっていく。ここええなぁって。それをつなげていく感じ。それで全体的にできたとしても、フォルムがおかしいところは辻褄があってないんよね。そこはちょっと修正してやる。それは力入れつつこうかなどうかなと。一回できまるわけはないので何周もしていく。そのなかでいらないものがなくなっていくとか足りないものを足していくとか、やりとり。感覚ですね。こうだろう、こうかな、みたいな。

ー機械で削っていた頃とは、感覚は変わりましたか?

機械って早いじゃないですか。がーっといってしまうし。明らかにそれは削ってるんで、マイナスしていく作業。でもこれはあるところまでマイナスなんやけど、プラスしていく意識にかわっていくんよね。ノミ跡、というか自分の力を足してやるっていうふうになるから、だから付けていく方の作業。

ー塑像みたいに?

そうそう。石彫って圧倒的に絶対的にマイナスしていく作業なんやけど、そういう意識がない。プラスしていく。くっつけていく。実際質量は減ってくけど、密度とかそういうものが増えていくように感じています。

ー単純な疑問なんですけど、この形が表す意味とかも考えたりするんですか?

それはないな。形の意味はないな。うーんとどうなんやろね。形に意味が必要なのかもわからないけど。意味のある形ってなんやろって。意味のない形もあって意味のある形もあるし。自然界では例えば球とか四角とか摂理でできていく形ってある。それも意味があるのかわからへんけど。

ーひたすらカタチを探っていく作業?

そう。完成さそうとも思ってないわけなんです。どんどん変わっていってもいい。《石の軀 Ⅲ》に関しては2009年につくったけど今回全部彫り直したんです。育ててる感覚かな。だからずっと触っててもいいわけで。それがきまったカタチであればそこで完成って言いやすいけど。常に探してる感じで毎日を過ごしてますね。わからへんから。なんかわからへんけどまだ先があるんちゃうかなって。それを探るには彫るしかない。とにかくモノを空間の中に置いたときに、違和感があっても不自然ではないものをつくりたいと思ってます。

  • 【*22】《石の軀 Ⅲ 2009/2022》2009/2022 黒御影石 h1100×w700×d750mm
  • 【*23】《work》
  • 【*24】《work》制作スタジオにて

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*23

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地球の上にいる

ー「早く仕上げたい」と思うこともありますか?

そういうのはだいぶなくなったけど、でもむかしは早く次に行きたいって思ってた時期もあって、そうするには作るしかない。一個のもんに1ヶ月、2ヶ月3ヶ月ってかかると怖くなってくる。とりあえず完成させて次に行きたいって思うから。だいぶのんびりするようになった。あんまり焦らないようになりましたね。

ーそれって畑仕事もされていることが関係しているんでしょうか?

たぶんちょっとあるかも。のんびりっていうか地球に乗っかってる意識にすごくなるから、畑やってると。【*25】地球の上にいるなって。大地があって自分がいるって意識にすげーなるから。そこにタネ植えて育ってくるの待って、収穫まで待って、だからスパンが何ヶ月単位になってくる。そういうのが石を彫るのと並行してるのはすごくよくて。そんなに焦らへんようになって。お日さん上がって沈むまでが作業時間やから、そのなかで自然とか肯定しつつ。ちょっと大きな視野で。なかなか地面に自分がいるって実感できひんけど、畑にいるとすごくそれが。社会のスピードと全然違う動きがここにあるから。石を彫るのもそうなんやけど。浮世離れしてるんやけど。

ーでもそれってどっちが浮世離れしてるのかって思いますね。お日さんの長さでっていうスピードが浮世離れっていうのもおかしな話ですよね。

でもものすごい速いで。日が出て、ああもう3時やって。日の加減で仕事してるから。だから「1日長い」と感じることはほぼないね。あ、12時や、3時や、もう5時やって。
なんか地球の回ってる感覚のなかにちゃんと自分がいるぞっていうのは確認できるっていうか。石を彫るのもそのサイクルの中でやってるので。

  • 【*25】畑の様子
  • 【*26】制作スタジオ(茨城)

*25

*26