Gallery PARC Art Competition 2017
「井上裕加里:堆積する空気」展示風景
ヒロシマその可能性の中心。
平田剛志(美術批評 / Gallery PARC Art Competition 2017 審査員)
経済の価値に実体がないように、歴史も時代や語り手によって変化する。ゆえに、歴史は一つではなく、正しい「歴史」などない。歴史は、個人であれ国家であれ、他者や他国との関係性によって成り立っている以上、事象に対する見方や歴史観は一様ではないからだ。なかでも、「戦争」となると歴史観の差異は表面化しやすい。
井上裕加里は、これまで映像やパフォーマンスによって、東アジアの近現代史をめぐる歴史観の差異や集団・組織における疎外や排除など、近代社会が生み出した国家、学校、領土などのコミュニティとコミュニケーション(関係性)を演劇的なコンセプトで視覚化してきた。
本展「堆積する空気」【註1】は、ヒロシマをテーマとした新作《罪の意識》(2017)と《文化の衝突》(2017)、東アジアの歴史をテーマにした旧作《Auld Lang Syne》(2014)の3作品が展示された。《Auld Lang Syne》については高嶋慈による適確なレビュー【註2】を参照して頂くとして、以下では新作について言及したい。
《罪の意識》(2017)は、原爆ドーム前で井上が朗読をする2面プロジェクションの映像作品である。左画面では1945年8月6日に広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの飛行士の手紙、右画面では被爆者の証言が、加害と被害、アメリカと日本、兵士と市民という異なる立場にいた人物の言葉がモノローグとして語られる。そして、発話者が井上一人であることにより、同じ声で異なる内容が語られる語りの矛盾、二律背反(アンチノミー)、ねじれを露わにしていく。
《文化の衝突》(2017)は、広島平和記念公園に設置されている原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)に刻まれている「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」とその英訳が書かれたシルクスクリーン作品である。「過ちは繰り返しませぬ」の主語とは誰なのか、英文の主語「We」とは誰を指しているのか、さまざまな論争を呼んだ言葉である。公式には碑文の主語は「人類」とされているが、発話の主語とは誰なのか、「過ち」の主体を問う作品である。
以上2作はいずれも「ヒロシマ」をテーマとした作品だが、原爆や戦争は目に見える表面でしかない。井上は「ヒロシマ」をめぐる言葉を「読む」ことで、「まだ思惟されていないもの」【註3】を到来させる。それは、複数の歴史を共有することではないだろうか。一つの曲や出来事という事象が異なる視点から歌われ、語られ、書かれることで、自国と他国、自己と他者、加害と被害などさまざまな差異が視覚的、聴覚的に提示され、私たちは複数の歴史に直面する。ここに特定のイデオロギーや歴史観はない。《罪の意識》の背景に映る観光客のように無意識に「歴史」を素通りするのか、あるいは言葉の前で立ち止まるのか、相違は他者の存在を意識することからしか始まらない。いま、「ヒロシマ」をその可能性の中心において読むとは、そういうことだ。
スーザン・ソンタグは「文学は、単純化された声に対抗するニュアンスと矛盾の住処である。(・・)作家の職務は、多くの異なる主張、地域、経験が詰め込まれた世界を、ありのままに見る眼を育てることだ。」【註4】と書いたが、井上の作品は単純化への抵抗である。一つの歌、一つの歴史に対して、複数の歌、声、言葉を対置し、複数の歴史を視覚化すること。本展を通じて、私たちが聞くのは、答えなき問いの可能性であった。
【註1】 本展の当初の公募プランは、「想像のアジア」と題した展示プランだった。だが、様々な事情でプラン変更を余儀なくされ、本展示に至った。戦後72年が経過したとはいえ、「戦争」体験をテーマとする作品制作の難しさに、「戦後」がまだ終わっていないことを痛感させる。
【註2】 高嶋慈「井上裕加里展」artscapeレビュー2015年04月15日号参照
http://artscape.jp/report/review/10109164_1735.html
【註3】 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社(講談社学術文庫)、1990年、25頁。
【註4】 スーザン・ソンタグ『同じ時のなかで』木幡和枝訳、NTT出版、2009年、219頁。