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Review
「湯川 洋康・中安 恵一:豊饒史のための考察 2016」展覧会評Exhibition Info

Gallery PARC Art Competition 2016

「湯川 洋康・中安 恵一:豊饒史のための考察 2016」展覧会評」展示風景

湯川洋康・中安恵一『豊饒史のための考察 2016』に寄せて

山本麻友美(京都芸術センター チーフ・プログラム・ディレクター / Gallery PARC Art Competition 2016 審査員)

 〈私〉が知る世界は、断片でしかない。そのようなことを思い知る事件や事故、そして日常が、私たちの周りには溢れている。世界は断片の集まりでしか再構築されず、断片が連続することで新しい物語が生まれる。ただし、そこには抜け落ちたり、途切れたりといった断絶も必ず存在し、同時にパラレルな別の世界もすぐそばにある。
 歴史認識とは、一部でしかないものから、世界を読み解こうとする行為だ。そして、小林秀雄の言うところの「今言」である。それは、どこまで行っても、私との関係でしか見出されない。湯川洋康・中安恵一の作品は、新しい歴史認識であるのだろう。

 

 時間的、地理的、地位的、あらゆるベクトルの中で、自分の場所を捉えようとする彼らの作品を見て、物や事との距離の取り方に、とても興味を覚えた。冷静に俯瞰する視線と、個人から出てきた物語のバランス。これほどに冷めた眼差しは、今の時代の現実であるのかもしれない。情報も物質も溢れる時代だからこそ、断片であるという事実を突きつけられるジレンマ。ただ、その中で、自分の位置を冷静に見つめなおすことには、とても重要で切実な行為だ。
 豊饒史という、彼らのテーマにも、対象から距離を取ろうとする意志を感じる。「豊かさ」という、ある種、現代では陳腐にさえ聞こえる言葉ではなく、「豊饒」という古めかしい、土の匂いや日の光を感じる言葉を選ぶあたりにも、それは表れている。

 

 また、今回の展示プランで、当初から気になっていたのが、本居宣長についてだ。なぜ今、本居宣長を選んだのか。二人は、宣長の姿勢と精神性に通じるものを感じたという。また、『端原氏物語系図』等に見られる宣長が持つ細部へのこだわりとその精緻な美学に解を得ようとしているのかもしれない。しかし、私は、宣長と彼らの共通点は、別のところにもあるように思う。


 「物まなびの力」は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかつた。彼の思想は、戰闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだつたと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、といふような態度を取つた事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかつた事による。さう見えるのは外観であらう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を缼いた観察者を惑はす外観ではなかろうか。私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事を、そのまゝ深い意味合での自己表現、言はば、「さかしら事」は言ふまいと自分に誓つた人の、告白と受取る方が面白い。彼は「物まなびの力」だけを信じてゐた。

−「新訂小林秀雄全集」第十三巻本居宣長、新潮社、平成二年、P34

 

 もっともらしく、さかしら事を言う専門家や研究者が多い中で、単なる直感でもなく、「物まなび」という拠り所を持つ宣長に、小林秀雄は憧れた。身の丈にしっくりあった思想しか語らなかった宣長には、やはり湯川・中安の二人には共通点があるように思う。繊細な作業の積み重ねで作られた「別物語」や、個人的なリサーチから発見された鬼瓦等を見ると「物まなび」の精神が感じ取れる。そしてそれは、歴史を逃げ道とせず、理解した上で、何かを問おうとする姿だ。
 〈私〉が知る世界は、断片でしかない。その先にあるものを期待させる展覧会になった。