Top

Previous page

Review
「嶋春香:MEET / MEAT」展覧会評Exhibition Info

Gallery PARC Art Competition 2016

「嶋春香:MEET / MEAT」展示風景

筆致の現像学

平田剛志(美術批評 / Gallery PARC Art Competition 2016 審査員)

 「視覚はまなざしによって触ること *1」と書いたのはメルロ=ポンティだが、絵画は「まなざしによって触ること」で視覚化される。プリニウスの『博物誌』(第35巻)によれば、絵画の起源は戦地に赴く恋人の影の輪郭をなぞったことから生まれたという。影の輪郭線をなぞって「うつす」こと、それは対象(人)物に触れる代替行為なのかもしれない。だが、言うまでもなく、「形というものは、ひとつの素材から別の素材に移されると、メタモルフォーズを引き起こす 」*2だろう。影ではなく、写真をもとに絵画を描くとしたらなおさらである。

 嶋春香は写真を絵画へとメタモルフォーズ(変態・変容・変貌)する。写真を「うつす」と言っても、「写真」をもとに描いた絵画は数多ある。ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(1780-1867)やギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は事物を正確に描写する資料として写真を利用し、エドゥアール・マネ(1832-1883)やエドガー・ドガ(1834-1917)は肉眼では捉えられない写真の光学的な視覚性を作品に取り込んだ。現代においてもフランシス・ベーコン(1909-1992)、ゲルハルト・リヒター(1932-)、リュック・タイマンス(1958-)などに写真イメージを受肉した絵画を見ることができるだろう。
 
 では、嶋はどのような写真を描くのか。嶋がモチーフとする写真は、作為性が抑えられた博物館などの「資料写真」である。資料写真とは、資料本来の背景や文脈の関係性を捨象し、背景紙のもと撮影される。つまり、図(イメージ)と地(背景)が分離されることになる。嶋はこのような「資料写真」の図と地の分離性に着目し、触れることができない資料(肉体を持たない幽霊のような存在)を肉付け(Touch)するように描く。
 だが、「資料写真」をもとにしたからといって「資料絵画」となるわけではない。今展「MEET / MEAT」で私たちが見るのは「獨逸の民藝」や「正倉院宝物」などである。だが、展示された作品は単色で、民藝品や宝物品とわかるような特徴や描写を見出すことは困難であり、「非具象的な相似が出現」*3した絵画と出会う(MEET)ことになる。
 一方、嶋の過去の作品に見られた絵の具の厚み、量塊性は今展の作品にはほとんど見られない。今展では、絵肌は色彩の滲み、筆のタッチ(筆致)の痕跡が全体に現れている。また、フロッタージュやドローイングなど、線を主体とする作品もある。色褪せたような滲みは、作品の素材に由来する。《Touch # 獨逸の民藝 6》、《Touch # 正倉院宝物 4, 5, 7》は、キャンヴァス素材にジーンズに使われるデニム生地を使用し、漂白剤でデニム生地の色素を漂白(脱色)することによって制作された。
 「漂白」とは、日常的には色や汚れを落として白くする化学処理を意味する言葉であり、描く行為とは真逆のように思える。だが、今展の作品を見ると、漂白された(色が抜けた)部分は白くハイライトとして浮き上がり、図と地が反転したように図像が形成されていることに気づく。つまり、嶋は「肉付け」の仕方、絵肌への「筆致」の方法を変えたのである。絵の具を重ねる筆致ではタッチを重ねるごとに重層的になる。一方、漂白剤によるタッチは、筆致を重ねるごとに像が現れる創造的漂白なのである。

 

 嶋はあたかもネガフィルムに光を感光させるように、デニム・キャンバスにタッチする。過去の油彩作品がポジティブ法による作品ならば、今展の漂白(描画)作品はネガティブ法による技法ということになるだろうか。
 そもそも写真の撮影、現像、プリントの工程は化学変化(メタモルフォーズ)による画像の生成である。フィルムカメラによる撮影は、ネガフィルムに光を感光させて潜像を作り、化学薬品による現像処理によって「像を現す」ことであった。そして、カラーネガフィルムには「漂白」という行程がある。モノクロ写真は「銀塩写真」と呼ばれるように、フィルムに含まれるハロゲン化銀が銀粒子に化学変化し、光が当たった部分が黒くなる。対して、カラー写真では銀粒子がネガを染色した後に、漂白液で余分な銀粒子を漂白し、定着液で画像を定着、洗浄する工程を経て現像処理が終わる*4。つまり、写真現像にとって、「漂白」は潜像を現し、色彩を定着するプロセスなのである。
 嶋にとって写真を見て描くとは、写真画像を再び「現像」することなのかもしれない。写真と異なり絵画は、筆致によってしか「現像」できない。かつて生活のかたわらにあった民藝品や正倉院宝物は、時を経て古色蒼然とした「資料」へ転移し、いまでは「資料写真」でしか触れることが叶わない。嶋は資料写真にタッチすることで「資料」に肉体を与え、「絵画」へとメタモルフォーズするのである。その「現像」は、まだ始まったばかりである。

 

 

*1 モーリス・メルロ=ポンティ『メルロ=ポンティ・コレクション』中山元編訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1999年、123頁.なお、メルロ=ポンティは晩年に「肉」(chair)という存在論的概念を提唱している。嶋が「MEAT」というタイトルに参照したかどうかはわからないが、言及は別の機会に譲りたい。
*2 アンリ・フォシヨン『改訳 形の生命』杉本秀太郎訳、平凡社(平凡社ライブラリー)、2009年、96頁.
*3 ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』宇野邦一訳、河出書房新社、2016年、209頁.
*4 ちなみに、カラーネガフィルムには青、緑、赤の光に感光する感光乳剤層が塗られており、撮影後に現像処理をするとそれぞれの補色にあたるイエロー・マゼンタ・シアンの3色によるネガ画像ができる。嶋はこれまでイエロー、マゼンタの単色で描いた作品を制作しているが、本展ではシアン系の作品が制作されている。

 

 

(参考文献)
・伊藤俊治『<写真と絵画>のアルケオロジー』白水社、1987年
・京都市美術館編『筆あとの誘惑 : モネ、栖鳳から現代まで : 特別展』京都市、1992年
・安河内宏法「ミュージアムと視覚の外側」、平芳幸浩編『これからの、未来の途中—美術・工芸・デザインの新鋭11人展』京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2015年、22頁。