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Review
「田中秀介:私はここにいて、あなたは何処かにいます。」展覧会評Exhibition Info

Gallery PARC Art Competition 2015

「田中秀介:私はここにいて、あなたは何処かにいます。」展示風景

あなたがここにいればよかったのに

平田剛志(美術批評 / Gallery PARC Art Competition 2015 審査員)

 映像を見るとき、時間の流れとは異なる「画像」に目がとまることがる。例えば、一時停止をしたり、スロー巻き戻しで映像を見たときである。それが意図したものであれ、ボタンの押し間違いであれ、鑑賞者はこれまで見ていた映像とは異なる、不可思議な風景や現象、色彩を見ることになり、今まで見ていた映像の時間から宙吊りにされたような気分になる。
 田中秀介の個展「私はここにいて、あなたは何処かにいます。」で目にする作品もまた私たちを宙吊りにするような現実のようで、現実でない光景を描いた絵画である。展覧会は、田中のおおよその一日が23点の作品によって構成される。描かれるのは、起床から仕事、食事、余暇、作品制作など現実の生活に即した情景である。言うまでもなく現代美術の若手「アーティスト」の日常は、芸能人のような生活とはかけ離れているのが現実である。今展で私たちが見る「一日」には華やかさとは無縁の生活感ある風景ばかりだ。俳人・種田山頭火は「句は無論生活から遊離して作られたものであつてはならない、生活に即して、否、生活からにじみでた句でなければならない」【註1】と書いたが、その意味では今展の絵画もまた田中の生活からにじみでた絵画である。
 驚くのは、田中の作風の変貌である。これまでの田中の絵画は、具体的な場所や人物を参照したような描写はなく、むしろ反現実的な光景が描かれた象徴主義的な絵画であった。近年は灰色を基調とした画面に世紀末絵画を思わせる不穏な寂寥感が満ちていた。それが今展では霧がはれたように、現実の事象が描かれるのである。

 

 1日(展示)の始まりは、階段踊り場に展示された部屋に朝日が射しこむ情景が描かれた《うたた前》から始まる。画面下部に描かれる布団はムンクやゴッホを思わせる波のような描線で描かれ、1日の始まりを告げる。続いて、ギャラリー壁面左から右へと、1日が進行していく。職場の上司、通勤路と思われる曲り道に立地するひび割れた家の外壁、喫茶店の情景、まな板の上の寿字に並んだネギ、アトリエの情景を経て1日(展示)は終わる。
 「一日」を一巡して気づくのは、時間や季節感がわかりづらいことである。展示は1日の流れに沿って構成されるとしているが、描かれる情景は説明的ではなく、作品相互の関連性、物語的な要素を見ることは難しい。それゆえ、どの絵画も現実を素材にしながら現実味を喪失した奇妙な光景となっているのだ。そう、唐突に映像を一時停止したかのように。

 

 では、なぜ今展で田中は「一日」という時間軸による展示構成をしたのだろうか。本展に流れる「時間」とは何なのだろうか。それは、かつての浮世絵や絵葉書、版画集にみられた続き絵、揃物、連作形式に基づき、「日常」を描く試みだとはいえないだろうか。
 揃物とは、シリーズ物のことである。よく知られる例としては、北斎の「冨嶽三十六景」は合計四十六枚(初め三十六枚、後に続編が十枚)、広重の「東海道五拾三次」は五十五枚で、それぞれ一セットとなる作品である。個々が独立した作品ながら、風景や旅の行程を主題に複数の作品が連続したシークエンスとして表現されるのである。絵葉書や切手においても、観光地や主題ごとにセットやシートが制作、販売されているのは現在でもよく見かけるだろう。田中は、浮世絵の揃物のように、ひとつの主題を複数の版画で展開した作品形式を「一日」に設定し応用したと言えるだろう。

 

 浮世絵や絵葉書は「非日常」の旅や観光地、記念物・行事を素材とするからこそ、年月や行程が揃うことに目新しさや希少性、収集性が付与された。これに対し、田中が本展で描く「揃物」は「日常」である。だが、目新しくもない日常の「一日」を形式とすることで、私たちは唐突で、不可思議な「非日常」的光景や現象に日々遭遇・発見しているのだと気づく。
 そもそも、観光地の絵葉書それ自体は「非日常」の風景だが、それを受け取る側は「日常」であることが多いだろう。「絵はがきを受け取るわたしは、ただの風光明媚な風景を見るのではない。それは、あなたのいた風景であり、わたしがいればよかった風景である。わたしは、絵はがきを受け取ることで、わたしのいない場所を告げ知らされる」【註2】からだ。そう、田中は私たちに「わたしのいない場所」を告げ知らせるのである。

 

 田中の絵画を揃物の絵葉書と考えたとき、今展のタイトル「私はここにいて、あなたは何処かにいます」が絵葉書における送り手と受け手の関係性であることに気づくだろう。これまでの作品が「彼方からの手紙」だとすれば、今展の作品は「此方からの手紙」なのだ。以前の田中の作品は、幻想的、象徴的な情景を描いた彼方、向こう側の「風景」であった。作者は「何処」かの「彼方」におり、私たちは田中が描く半現実的な「彼方」の風景を見ていた。
 対して、本展の作品は作者の周囲の風景を描いた此方の風景「絵葉書」なのだ。私たち鑑賞者は此方(ここ)の日常の情景を見るのである。本展タイトルが示唆するように「私はここにいて、あなたは何処かにいます。」と。

 

 かつての観光絵はがきには、差出人が受取人に向けて「あなたがここにいればよかったのに(I wish you were here)」という決まり文句を記したという。なかには「ここ」を指し示す矢印や記号さえ印されたという。今展の絵画においても、手のひら、まな板、テーブル、家の壁、襖、擦れた駐車禁止の路面表示、電信柱の車避防護板などの「画面」上に、日々の蓄積、経年変化、摩耗ないしはシワ、ヨレ、ひび、傷などがつき「私」がいた痕跡が印されていることに気づくだろう。
 田中の絵画は、かつての観光絵葉書のように、「私たち」のいない風景を描くことで「あなたがここにいればよかったのに(I wish you were here)」と告げるのだ。私たちが田中の絵画に見るのは、田中がいた風景であり、「わたし」の不在の場所(ここ)であり、わたしがいればよかった風景である。かつてのその日、私は何処にいたのか、それを思いだそうとすると思考は一時停止する。

 

 

 

【註1】種田山頭火『山頭火 一草庵日記・随筆 山頭火文庫4』春陽堂書店、2011年、367頁。

 

【註2】細馬宏通『絵はがきの時代』青土社、2006年、118頁。