2006年に京都市立芸術大学大学院美術研究科保存修復専攻修了した中尾美園(なかお・みえん/大阪生まれ)は、仏画や水墨画の絵師としての活動とともに、日本画における写生・模写の技術をベースとした作品により、2008年の「京展」や2013年の「シェル美術賞」入選、2015年の公募企画「Gallery PARC Art Competition 2015」でのプラン採択による展覧会『図譜』の開催をはじめ、「飛鳥アートヴィレッジ」(2015年)や「Assembridege NAGOYA 2016 現代美術展『パノラマ庭園 │動的生態系にしるす │』(2016年)などへの参加、2018年には「紅白のハギレ」(ギャラリー揺/京都)、「あすの不在に備えて」(元崇仁小学校/京都)の個展を開催するなど、精力的に活動しています。
中尾は日本画における写生・臨画(模写)を「うつし=残す=記録」の側面で捉え、「絵」をより長い時間を超えて未来に残る可能性を有した柔軟で強度を備えた媒体・行為であるとして、その視点をこれまで様々な作品へと展開させています。 自宅近くの水路に流れてくる落ち葉、祖母の嫁入り箪笥に残された小物や着物の柄、今は空き家となった家屋や閉店した喫茶店に残る品々など。これまでに中尾は、日々の中で消失していく「モノ」をめぐり、聴き取りや調査などのリサーチを行ないながら、丹念な写生・模写によってそれらを「うつし」、絵巻に仕立てています。それは「モノ」だけでなく、「記憶」や「歴史」の「記録」であり、「絵」はそれらを「うつす」ための優れた方法であることを示しています。 紙や布に描かれた「絵」は、そこに広げるだけで誰もがアクセス可能な情報であり、現在のデジタルデータのように機器に依存しない独立した媒体であるといえます。 とりわけ日本画は和紙や絵具、道具や技法にいたるまで、保存・補修の技術体系が確立したものであるといえ、長い時間を超えて現在に残る作品の数々が、それを実証しているといえます。
本展はこれまで同様に「うつし」による作品によって構成されます。しかし、ここでの「うつす、うつる」はオリジナルに対する複写(コピー)の関係のみを指すのではなく、そこに生じた「うつし」が「うつす、うつる、」と転じていく中で、やがて新たな「生」の系譜を現していくのかを見つめるものです。
本展は中尾が、高齢となった大叔母の「生」の一部をうつしとろうとする個人的な動機に端を発したものといえます。そして、その手掛かりとして「しめ縄」をひとつの定点としています。日本の神道との関係が深く、その歴史も古いしめ縄を、一人の女性・キミコ(中尾の大叔母)の人生の中の生業として見つめ、彼女の手がけるしめ縄を「うつす(記録)」ことに主眼を置いています。
好奇心から見よう見まねではじめたキミ子のしめ縄作りは、七〇年以上の時間を経て独自の改良や造形美を持つに至りました。しかし、正月飾りやしめ縄の多くは一月半ばにはどんと焼きなどで焼き納められるのが一般的であり、一年の限られた時期に作られ・飾られるものであることから、その記録は残っていません。二階展示作品にある白描によるしめ縄の絵は、現在において直ちに有意義な記録であるとは言えないかもしれません。しかし、それがこれから先の長い時間を超えて残った時、この記録の意義は今とは異なるものになっているかもしれません。
記録し、残すことは、現在から過去を眼差すだけではなく、現在から未来に向けて「はじめる」ことでもあると言えます。中尾はその「托す」のために出来ることとして、今に見過ごされがちなもの・ことに目を向け、うつし描きます。 また本展で中尾は「しめ縄づくり」の技術の「うつし(伝達)」にも取り組みます。これにより「うつし」が過去の記録や記憶だけではなく、現在と未来への生への可能性を持つことに触れています。
絵が、記憶が、技術が『うつす、うつる』ということ。またそれが点と点の関係を超えて、広く・永く・遠くに「うつす、うつる、」と連続していくこと。中尾の描いた「絵」には、過去だけでなく、未来をも見る(想像する)ことができるのではないでしょうか。
正木裕介(ギャラリー・パルク)