六甲山の麓には山からイノシシが下りてくる。2016年に神戸の団地を撮る機会があり、下見を兼ねて六甲周辺を散策していると、至る所にイノシシが描かれた看板を見つけた。僕はその絵を見て数少ない神戸での記憶を思い出す。僕は、幼い頃に神戸市内で過ごした時期がある。今では当時の記憶はほとんど無く、数少ない記憶の一つにイノシシに遭遇した事がある。その情報を思い出しただけではあるが、看板を通して今も変わらずに神戸にイノシシが出ること知った。僕にとって神戸の街並みは、山の中にすっぽりはめ込まれた街である。住宅街と言っても街の端まで行けば落石防止のネットで行き止まりとなったり、橋のない渓谷で道を迂回するなど、決して都市とも田舎とも言えない場所である。それこそ、その場所は自然と人為が折り重なった場所と言えるのではないだろうか。
六甲山は、古くから森林などの伐採や燃料材の確保などを繰り返して行くうちに山は荒廃していいった過去がある。荒廃の結果、土砂災害が頻発させることとなり、明治以降に土砂災害対策で植林を施すことや治山事業が活発化していく。そして、1960年以降には山中に都市を作る開発が始まり現在の街並みへと繋がる。この一連の流れは、人の暮らしに必要とされた形で何度も調整された自然の形なのだろう。人為的自然ともいうべきなのだろうか、そして、人間が主体ではない自然とは何だろうか。それは、網目越しの彼方から突然現れるイノシシだ。彼らは、不意にやってくる。それでも閑静な住宅街は、依然として閑静なままだ。
ならば、人もイノシシもいない写真を見た時、僕はどんな思いをするのだろう。この場所で写るものは何があるのか。SNSで画像付きの投稿を見て、獣害を受けた地域を巡りながら写真を撮っていく事をした。撮った写真を見返して行くうちに、極端に視線が低い写真があることに気づいた。その低さは、生き物を彷彿とさせ自身で撮った身体ではないような違和感を感じさせる。斜面を歩く時、人は顔を正面に向けることはそう容易いなことではないと思う。傾斜が厳しいほどに空を仰いでしまうか、或いは地面を見てしまうかではないだろうか。でないと、先も足元も見ることが出来ずに躓いてしまうからだ。では、顔を水平垂直にした時どのように見えるのか。それは、写真で起きたように視線が低くなる。この瞬間、僕は地形によって影響を受けた視線があることを経験した。紛れもなくシャッターを押したのは自分ではあるが、地形にも手というものがあるとすれば、僕に手を沿わせた結果として視線の低く感じさせるのかもしれない。と同時に「僕が見た」という指標は「地形によって僕は見せられた」という指標へと変換が起きる。
ヴァルター・ヴェンヤミンの『写真小史』でこのような一節がある。「カメラに語りかける自然は眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間の代わりに、無意識に浸透された空間が現出するところにある」。ヴェンヤミンに倣って言えば、地形が映像に影響を及ぼした結果、写真(自然と人為の視線が交錯する)として見る事が出来るのではないだろうか。
最近、知人との会話で、京都の平安神宮に現れたイノシシは二条城まで走り、外堀に飛び込み命果てたという話を聞いた。
守屋 友樹