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Exhibition info

GUTIC i was born
山岡 敏明

2017.3.10. 〜 3.26.

Exhibition View

8 images

Statement

たとえばコーヒーに落ちたミルクの滴が、そのつど表情豊かな模様を描くように。また、ある場所に伸びる一本の枝が、固有の枝振りを描くように。
全ての出来事がドラスティックな因果に即して、その状態であるべくして独自の様相を成り立たせている。しかし、「そうなった」ことと「そうならなかった」こととの間に、果たしてどれほど切実な要因が介在しているというのか。一度限りのこの世界においては、到底起こりえなかったことも、ややもすると起こりそうだったことも、あまねく平等に世界からこぼれ落ちていく。
一方で、選び取られた唯一無二の結果の上に次の結果が累積していき、刻々と偏りの特性が顕著になっていく。そうして、たった一つの世界の姿がかたちづくられる。とりもなおさず世界の現実とは、今この瞬間において、すべての「別の状態であった可能性」を排除した唯一のまごうかたなき事実であると共に、たまたま脱落を免れただけの、一つの結果にすぎないともいえる。
グチックとは、ありそうでいて実在しないある種のフォルムに関して音付けられた仮の呼称である。
意味が付帯するより先に「在ってしまった」この世界や我々と同様に、線で囲まれたカタチの特性は、それ自体がぬきさしならぬ事実を語っている。私は支持体の上で線を描き、消してはまた描き直し、延々と繰り返すその行為なかで、美しいものでも格好良いものでもなく、ましてや荒唐無稽な架空の創作物でもなく、事実として「あるべきもの」の姿を求めて試行錯誤する。
おのずとそれは、この世界と隣りあわせの位相に棲む何かを穿りだしてきたようなフォルムに収斂していく。描画の過程で、現れてくるそれらのカタチがいびつに存在を主張するたび、私は避けられない不条理をトレースしているかのような居心地の悪さと同時に、そういうものにこそ核心的なリアリティを見出さずにはいられない。

山岡 敏明

About

 1995年に東京造形大学を卒業した山岡敏明(やまおか・としあき/大阪・1972~)は、2003年より「GUTICSTUDY(グチック考)」とする制作・発表に取り組んでいます。「世界の現実とは、今この瞬間において、すべての『別の状態であった可能性』を排除した唯一の事実であると共に、無数の可能性からこぼれ落ちなかっただけの、一つの結果にすぎない」とする山岡は、「形象-フォルム」に着目し、「あったかもしれない可能性」としての「カタチを探す」思索と行為をおもに平面上に展開しています。「GUTIC(グチック)」とは山岡によって描き出された、ありそうながらも何であるとは判じ難い、ある種の形象やフォルムに関して、作家自身が名付けた仮の呼称です。

 

 今回の展覧会タイトルは、詩人・吉野弘(1926 - 2014)による詩「I was born」からとられています。この有名な詩の中で、英語を習ったばかりの少年である「僕」は、妊娠した女性とすれ違い、ふと「<生まれる>(=I was born)ということがまさしく<受身>である訳を諒解」します。一緒にいた父にその発見を告げると、父は訥々と、2~3日で死んでしまう蜉蝣(かげろう)の話をしたあとに、「僕」の母が僕の出生後間もなく死んだことを告げます。父の話は「僕」に、口すら退化し、胸の方まで卵にふさがれた雌の蜉蝣と、「母」を重ねた、強烈なイメージを思い描かせます。

 

 山岡によるGUTICは、近年、生物の器官のような有機的な輪郭・質感をもった、独特の「カタチ」を画面上にあらわしています。この「GUTIC」は、世に生まれ出ることのなかった『もうひとつの現実』としての形象であり、その結果を導いたのは偶然的で「不条理な」出来事や選択の累積によるものではないかと彼は考えます。彼の言葉の裏を返せば、私たちが現実世界で目にしているあらゆる形象、あるいは私たちの身体そのものが、ある種の「不条理さ」の連続と累積の上にかろうじて成り立っているものとも言えるでしょう。

 

 すべての生物は、なぜそのような形態で生まれなければならなかったのか、という不条理を生まれながらに引き受けた状態として、いわば「生まれさせられた(was born)」ものであるとも言えるかもしれません。山岡によって生み出された形体=あったかもしれない「もうひとつの現実」の姿を通して、私たちが目にしている「たったひとつの現実」の揺らぎを目撃する時間となれば幸いです。