本展は、愛知県立芸術大学油画専攻の在学および卒業生による展覧会として企画したものであり、彼らが日本の中間地点「愛知」という場所で思考したこと、表現しつつあるものを紹介することでその「視点」を考察する試みです。
「愛知」にはいわゆる日本のアートシーンにおける「ラグランジュポイント※」として独自の空気感と表現に対する意識が存在しています。
それは「西」と「東」の「中間」に位置するという対比構造や地理的条件などの影響をも含め、様々な引力の中間地点とするベクトルが均衡した特殊な「重力場」のようであるといえ、この特徴はこれまで愛知県立芸術大学出身者を含めた愛知をルーツとする多くの作家達が活躍する中で注目されるものでしたが、現在ではあまり触れられることがないように感じます。
2回目となる本展では、副題を「パースペクティブカスタマイズ」として絵画や版画を制作する3人の作家を紹介いたします。
石場文子は彼女の日常の中で錯視的に見る「面」に注目し、シルクスクリーンや写真を用いて恣意的にこの視覚に介入する作品を制作しています。石場は街で見かける赤いコーンや服のストライプ、看板といった物から視覚的な認識のズレが発生し、色面や柄面に見えたことから「見る」こと「認識すること」という私たちの視覚認識に問いかける作品を制作しています。今回の出品作は部屋のソファーを写した写真作品ですが、一緒に写される「色面」が錯視的にクッションやカーテンに見えるという風に恣意的に視覚に介入することで私たちの認識ズレ、視覚のズレをあらわにしています。
多田圭佑は壁面に残るテープやステッカーの痕跡を「絵画」として再構築し、これらの存在について思考する絵画を制作しています。今回の出品作「existence」のシリーズである「sticker」「wood」の平面作品は、木の板やフローリングにシールが貼られたように見える作品です。一見、ただそれだけに見える表面であるが、実はこれらのすべては「絵具」の集積で作られており、画面に絵具が乗る、イメージがある、という絵画の基本的事項に対して、表象の問題やイメージの問題を唯物論的に問い直しながらその存在について思考しています。
横山奈美は大正~昭和初期の「日本の洋画」を想起する重厚な表面を持ちながら、生活の中にある「少し悲しいものたち」を描き出します。
横山は「ブリトニー・スピアーズになりたかった、憧れは外国人で、濃い化粧をしてウィッグを被れば、そうなれると思っていました。」と語る憧れや願望が、大人になって「そうなれると思っていたけど、なれない。」という、あらがう事の出来ない文化的・人種的な相違に対し、彼女が日本人として、また絵描きの視点から自身の歴史性にベクトルが向いたことが契機となって一連の絵画作品を制作しています。彼女が敬愛する岸田劉生といった大正~昭和初期の「日本の洋画」をイメージする重厚な表面をもちながらも、その重厚さのイメージから相反する「もやし」や「トイレットペーパ」といった「少し悲しいものたち」を描く彼女の視線はひょっとすると私たちのポートレイトなのかもしれません。
彼らの視点とは絵画や版画といったメディウムを基盤に「歴史」「空間」「眼差し」を日々の視点で再構築し、見慣れた風景を新たな風景にカスタマイズして、描くための消失点を見いだそうとする試みであります。様々な表現がある中で「絵画」や「版画」を基軸に据え、思考する彼らの方法論の中から「ラグランジュポイント」としての魅力を見る事が出来ればと考えています。