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Exhibition info

GUTIC MERISTEM
グチック・メリステム
山岡 敏明

Yamaoka Toshiaki

2013.3.19. 〜 3.31.

Exhibition View

14 images

About

 1995年に東京造形大学を卒業した山岡敏明(やまおか・としあき/大阪・1972~)は、2003年より「GUTIC STUDY(グチック考)」とするプロジェクトに取り組んでいます。2013年で10年目を迎えたこのプロジェクトは、山岡により「GUTIC(グチック)」と名付けられた「普段は目にする事は出来ないが確かに実在するという謎の量塊」を巡り、その「あるべきカタチ」をドローイングやインスタレーション、映像などの様々な方法論により探求するものです。当初は不明瞭であやふやな姿をしていたGUTICは、現在では明確な輪郭・強いリアリティを持つまでに変化しながらも、尚も奇妙な抽象形態をあわせ持つ独自の存在へと展開しています。それはまるで山岡の身体・思考を触媒に現われる独立した生物のようであり、現在に至るその変遷には、生物が進化する先を探して様々にカタチを変化させたかのような、あるいは強靭な生命力みなぎる原始の生物へと還るかのような、パラレルな分化の系譜を見るようでもあります。


 本展タイトルにある「MERISTEM/メリステム」は、植物の茎や根の先端に存在する、肉眼では見るのが難しいほど小さな組織の名称であり、未分化の細胞から成るこの組織が、活発に細胞分裂を繰り返しながら様々に分化することで植物は形成・成長していきます。


 10年目という一つの区切りを迎えて開催する「GUTIC MERISTEM」展は、最新のGUTICの姿をお見せする結節点としての機会であるとともに、その原点に立ち返って「カタチの探求」というプロジェクトの核心を掘り下げた、純度の高い作品をご高覧いただくものです。また、これからの10年間でますます活発に増殖・展開していくだろうGUTIC:山岡敏明にとっての新たな始点となる機会であるともいえます。

Introduction

GUTIC[グチック]は、あらゆるものの形から抽出された抽象形態であり、アーティスト・山岡敏明の考える「あるべきカタチ」そのものです。
2003年、山岡は「GUTIC STUDY /グチック考」と題したカタチを探求するプロジェクトをスタートさせました。
当初は不明瞭であやふやな霊のような姿をしていたGUTICですが、現在は明確な輪郭と確固たるリアリティを持つ存在へと変化しつつあります。
GUTIC STUDYは、今年で10年目という一つの区切りを迎えました。
そこで今一度その原点に立ち返り、カタチの探求というプロジェクトの核心を掘り下げた、純度の高い作品をみなさまにご覧いただきたく、「GUTIC MERISTEM」展を開催する運びとなりました。
タイトルにあるMERISTEM/メリステムは、植物の茎や根の先端部に存在する、肉眼では見るのが難しいほど小さな組織の名称です。
未分化の細胞から成るこの組織は、活発に細胞分裂を繰り返しながら様々に分化し、植物の各種器官を形成・成長させていきます。
そして、メリステムの活動さえ維持できれば、植物は何百年、何千年と成長を続けることができるのです。
これまでの10年間に様々に展開され、これからの10年間でますます活発に増殖していくだろうGUTICの原動力となる山岡敏明の最新作を、是非ご高覧ください。

 

展覧会ディレクション

宮下 忠也

─ GUTICとは何か?

マジシャン・オブ・ザ・スペース(空間の魔術師)。山岡敏明を一言で言うならば、これがいちばん相応しいだろう。彼が作り出すものは増殖しあふれ出し、面妖に変化しつつ空間を跋扈する。そして、彼方にあるものの実体を飲み込み、新たなものを肉化する。そこでは実が虚を生み、虚が実を生む。その眩暈のなかで、そこに立ち会うものは、まるで胎児のように安心するとともに、揺籃の予感で打ち震えるのだ。

岡村多佳夫 / 美術批評家

 

山岡敏明さんから「グチック」のコンセプトを聞き、作品を見た時、私が連想したのは、我々には感知できないもう一つの次元に存在する何ものかだ。それはちょうど、映画「禁断の惑星」における潜在意識の怪物か、「スターウォーズ」におけるフォースの暗黒面か、漫画「風の谷のナウシカ」におけるトルクの皇兄の亡霊のような存在である。私の解釈が正しいか妄想かはともかく、「グチック」は未だ全貌が明かされない未完の超大作と言えるだろう。彼のコンセプトを100%実現するには、街の一区画を丸ごと使うぐらいのスケールが必要だからだ。「グチック」成就への道のりは果てしなく遠い。しかし、いつか本当にその日が来るのではないかと、私は密かに期待している。

小吹隆文 / 美術ライター

 

グチックとは、線によって表されるカタチである、という。ということはつまり、これは絵画の要素そのものであり、そして彫刻の要素そのものでもある。グチックが通常の絵画やドローイング、彫刻とひとつはっきりと異なるのは、それが生物のように成長したり衰退したり、常に変化を続けているという点である。 思い浮かべるのは粘菌だ。動物と植物の両方の性格を備え、脳も神経もないのに自律的に変形と移動を繰り返す不思議な生物。山岡敏明も粘菌と同じように、脳や神経なしに自律的に生まれるカタチを目指しているのかもしれない。

原田明和 / HRDファインアート ディレクター

 

宇宙は目に見える(観測することができる)物質は約4パーセントにしか過ぎないという。残りはダークマター(暗黒物質)と呼ばれる光学的には観測できない未知の物質なのだという。ダークマターとは、光も電波も発することがなく、目にも見えない物質で理論上の仮説とされている。だが、その質量が引き起こす現象から宇宙に存在する物質であると言われている。山岡敏明の「GUTIC」もまた、ダークマターのようなものかもしれない。「GUTIC」はその存在こそ認知できるものの、その質量は捉え難いからだ。つまり、宇宙が目で見えるのが一部分でしかないように、GUTICもまた目では捉えきれない(見えない)物質によって構成されているのではないだろうか。目に見えるものは、目に見えないものを隠している。宇宙の闇に目を凝らすように、GUTICのダークマターを見い出したい。

平田剛志 / 美術批評・京都国立近代美術館研究補佐員

 

「絵に描いた餅」が、時に本物よりも香ばしく感じられるように、グチックは現実よりもより強い現実感を発する。それはボリューム、或はボイドを纏った美しい嘘の総体である。

森川穣 / 美術家

 

描いては消し、消しては描く。その繰り返しの中に彼の制作がある。ではそこに現出と消滅を繰り返す「かたち」とは一体何なのだろうか?

僕らは一体何を見せられているのだろうか?

それは、きっと彼のとてつもなく大きな想念そのものであり、「グチック」として現前化するその一瞬の現場に僕らは立ち会っているのかも知れない。

母袋俊也 / 画家・東京造形大学教授

 

グチックとよばれている一連の作品は、可視あるいは不可視な、気配と存在の中間にある何か、だと考えています。

林勇気 / 映像作家

 

何処かの賢人がのたまった。
『人間の目に映るこの世のすべての事象は比喩にすぎない』と。しかし『例外の無い法則は無い』とも云うではないか。まさに山岡敏明の「グチック」がそれだ。兎に角グチックは、世の中の事象のいかなるものとも比べたり、別の何かに譬えたりできない代物だ。まるで、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を観た時ぐらいに不条理な何か…。
「ゴドーを待ちながら」を引き合いに出すこと自体が、グチックを何かに譬えようとしていて、私自身の中の矛盾に気付かされる。
あぁ、この不条理、この不可解、永遠の罠!!

一体全体グチックって奴は!

野村ヨシノリ / Gallery OUT of PLACE

 

約10年前、今は無きとあるギャラリーで見た最初のグチック。その第一印象は、「ん?牛(ホルスタイン)?」というものだった。しかし、グチックとはそんな生易しいものではなかった。
目の前に見えている部分は氷山の一角、否、ロックグラスの氷程度。
"そのスケール感はとんでもなく大きく、謎めいているのだ。
山岡さんは発表の度、目にするグチックの存在を大きくするだけでなく、鑑賞者の意識さえも支配し始めるようになった。
物質的な立体かと思えば、視覚トリックを利用したインスタレーション、カメラでしか写らない映像などなど、グチックは形を変えて僕らに姿を見せる。「スプライト」という漫画で時間が黒い水のように表現されているのだが、グチックもそういった概念を具現化しているのかもしれない。最初に牛かな?と思った自分はもう何処にも居ない。

デジタル陶芸家 / 増田敏也

 

鉛筆で宇宙をなぞろうと、途轍もないことを企てた誇大妄想家がいる。彼がつかんだ宇宙のしっぽ、それがグチックだ。

片山和彦 / GALLERY wks.

 

グチックとは視界の裏側と自分の裏側をつなぐパイプであり、そのせめぎ合いである。

泉 洋平 / アーティスト

 

彼のノーブルな映像作品の中で、本当のかたちを求めてダンスする。ぼんやり見えていたドローイングのタッチが立ち止まり、リフレインし、ジャンプし、自在なステップの地平から立ち現れるかたち。出来事の痕跡が身体の跡として、それはフィクションを超えた、あるべきはずの世界なのだ。その上でまた繰り返されるダンス。拡張される意識と世界。そして私たち。

吾妻琳 / contemporary dance

 

カタチ のない カタチ。
その奥へ、その裏へ、その向こうへ。
ひたすら、探り続ける。心の奥の、その奥に、
潜み続けるカタチを求めて。

高本万知夫 / コピーライター

 

山岡さんとはプライベートでも親しくさせていただき、4ヶ月に一度くらい回転寿司へ行ったりします。
そのときの話題は、もっぱらアートに関すること。山岡さんは、お酒を呑みません。
あの黒く大きなグチックは、山岡さんの自己顕示欲が変形したなにか。
ぼくを含めた皆さんも、そのなにかを処しながら生活しているように思います(思い違いかな)。
どちらかといえば、ドロドロしたノイジーなのを想起してしまうのですが、、山岡さんのそれはそうゆうのがなく、ペタっとした感触のような気がします。
でも山岡さんがそう見せかけていて、ぼくが見誤っていることもあるでしょうし、、小生意気なことを書いてしまいすみません。

宮本 博史 / アーティスト

 

今から14-5年前のことになるが、知人等の制作した喜劇の筋立てに、悪徳デヴェロッパーが地域を買占め、「ドイツ哲学のテーマパーク」を造ろうとする、というものがあった。
その企ては地域住民の抵抗に破れ、野望に終わり、眼前に示されることはなかったが、そのアイデアの余りの在りえなさに、眩暈を覚え、また笑ったのだった。
山岡氏の作品が展示されているギャラリーに足を踏み入れ、グチックを前にしたとき、私が覚えたのはその眩暈であった。
「『物自体』ではないか!」
カント哲学において「物自体」はあらゆる感覚事象・経験の前提であるが、感性・悟性によっては捉えることができないとされる。後にドイツ観念論と呼ばれる思潮は、カントの引いた主観と客観の一線を乗り越えんとする運動であったと括られる。
グチックの周りを経巡りながら、私は自分に言い聞かせた。
「否、これは黒い立体に過ぎない。」
「曲線を描き空間を占める何かではある。」
「しかし、……。」
この小文は山岡氏を悪徳デヴェロッパー呼ばわりせんとるすものではない。むしろ彼は工作者、一作業員であることを選ぶであろう。しかし、日常的経験で知覚できない何かを手技をもって作り出し、人を微笑ませる、そんな行為が美術でないなら、何が美術であると言うのか?

荒木瑞穂 / 金石研究・詩人

 

世界の認識モデルとしてのグチックは、同時にこの世界を構築する生の欲動のメタファーにも思える。
山岡さんは都市を覆うそのエネルギーの片鱗を現実空間に口寄せる霊媒師だ。

越野潤 / 美術作家

 

 

グチックとは、人の無意識の集合体ではないだろうか。街に、地下に、様々な場所に出現するグチック(の断片)に出会うたび、私はそう感じてしまう。
常に変化する全貌を実際に見ることは叶わないが、きっと作家の筆先がグチックの輪郭に触れるその一瞬間だけ、私達にその姿を見せてくれているのだろう。

田中真吾 / 美術作家

 

こたつに入ったとき、足に当たります。

笹倉洋平 / アーティスト・カメラマン

 

幼い頃からずっと夢に見続けてきた怖いものがいる。といってもそんなに怖いわけではなく、めちゃくちゃ怒っているとか絶対襲ってくるとかではなくていつもいろいろな場所にただ佇んでいる。時々ビル程に大きく向こうが透けていたりすごく薄かったりする。しみのようなものだ。あゝいるなと思うだけだ。
ただ何となく辛気臭いので幼かった私は「怖いもの」という記号を与えて親しんできた。

そんなはずはないけれどふと何やら「嫌な」予感がして首筋やら胃のあたりがそわそわし、否やっぱりそんな筈はないと気を取りなおして半笑いで振り返ると「あゝやっぱりそうだったのか」

笹倉アツコ

 

黒いバリウムの味はイチゴかチョコレート。醤油じゃないと思う。

小島剛 / 音楽家

 

幼少の頃に母に何度も読んで聞かされ、その後自分でも読み返して何度も空想の世界に浸った忘れられない物語がある。その名を「はてしない物語」(ミヒャエル・エンデ作)と言う。映画化されて知名度を高めたが、実のところ物語の肝となる「虚無」という存在について、映像ではとてもその雰囲気を完全に表すことは出来なかったと思っている。
「虚無」は読んで字のごとく「虚ろで何も無いもの(こと)」と考えられるが、子供の頃に何度も読聞かせられた言葉の響きは、何やらとてつもなく大きくて深く、ブラックホールのような印象であった。それは難しい漢字を覚えない子供心にもグッと来るものがあり、そのような強大で深遠なる存在と戦おうとする若き勇者の背中を、読者は必然的に応援せざるを得ない吸引力があった。そして大人になり、「虚」という言葉の意味を次第に知る事となった今、少しだけ「虚無」の印象は変化したかもしれない。ファンタジーの世界ではなく現実の、身の回りにはびこる厭世観や脱力感、物事を後ろ向きに捉えずにいられない風潮、人を批判し攻撃する事で束の間の充足を得ようとするような殺伐とした世相を重ねずにはいられなくなった。そんな折、ふと目にしたのが山岡氏の「グチック」なる表現である。
ある時は平面上に、ある時はギャラリーを大胆に空間構成してあたかも現実に存在するかのように見せられるその黒い塊は、作家の意図がどうであれ、私にとっては「虚無」として認識するには充分の存在感であった。その後何度か目にする度に、彼は実直にグチック考を継続的に掘り下げて行くのを感じて来た。何とも不思議な魅力に取り憑かれた作家である。
「虚無」が「黒い」かどうかは、議論が必要であろう。
実際、グチックは虚無とは異なるはずだから、勝手な私の思い込みと解釈だけで書くのには躊躇するが、それでもなおグチックの中に「虚無」を見出さずにはいられない。
言葉の行間に、視界のすぐ脇に、そして地図や現実の空間世界に知らない間に存在しじわりじわりと動き、拡大する黒い塊。それは人間が本質的に抱える不安や焦燥を表す幻覚のようなものかもしれないし、はたまた自分自身の精神的な闇を投影した存在かもしれない。繰り返すが私は山岡氏の提唱する「グチック考」について、ほんの些細な理解程度しか持ち合わせていない。
だが、ずっと気になっている。これからもきっと気になり続けるだろう。それはまるで、生まれてから死ぬまで寄り添う私の影のように、付き纏うものとして。

石橋圭吾 / 有限会社ニュートロン代表取締役・アートディレクター

 

グチックはすべて嘘である。大きな海に浮かぶ波と太陽の熱を思わせる完全なる嘘っぱちだ。

スヌー & かおり

 

グチックとは山岡氏の分身、または生き写し、あるいは映し鏡、はたまた時空の割れ目から溢れ出てきた化身じゃないか?と思ってます。
その言葉自体もまた、「愚痴っ苦」と変換すればほろ苦く、また「グティック」ではなく「グチック」なとこが山岡氏の人柄のようです。一見すると、強面のようにも、しかし、クマのプーさんのようにも見える山岡さんのルックス。
人は見かけによらずとかいいますが、グチックは、その見かけによらずな世界を我々に提示してくれる何かしらのとっかかり、あるいは鍵穴のような存在である気がします。
そして最近のグチックの形状は、どんどん山岡氏本人に似てきてる気もしてます。

木内貴志 / 自称美術作家

 

グチックは、鑑賞者の魂を開放し、無限大の可能性をみせてくれます。

福岡勝久 / Gallery H.O.T

 

忍び寄る夢。消え行く欲。何も起こらないことに退屈で平和な僕ら。

伊吹拓 / 画家

 

もともとグチックには個体差があり、さらにそれを感じる個人差があります。私はグチックに出会う度に、自分の心境や体調を再確認するような気持ちになります。

築山有城 / 彫刻家

 

山岡さんのグチックは「形を探すこと=絵を描いてくこと」と私は理解しています。2008年頃だったでしょうか、大阪市立大学付属病院に入院している子ども達を対象にした「グチック」のワークショップを山岡さんにしていただいたことがあります。
学校ではないので一斉に説明する時間もなく対象年齢もさまざまで、皆が「グチック」を理解したか、そもそも説明を聞いていたかさだかではありません。しかし、来る日も、来る日も子ども達によって
「形を探し」と同時進行で、さまざまに「絵が描かれる」こととなりました。そのワークショップでは、いくつかの「ミラクル」めいた出来事も起こりましたが、詳細はまた別の機会に記したいと思います。で、そんな経験もあり、山岡さんのグチックは、私にとって山岡さん一人ですることではなく、どうやら何人かですることのようにも、思えてたりもしています。

中西美穂 / アートマネージャー

 

そうですね、私はとくにグチックが好きです。サウスポーですから。
おどりも得意です。

梅田哲也

 

ぼくは、20歳の頃から「自他の境界」について問い、身体を通してずっと考えてきた。
でも最近は、自然体というものに近づけば近づくほど、その境界はうすれていくと思うようになってきている。
グチックにも、そういう見方だ。

池上恵一

 

グチックについて改めて考えました。グチック・グチック・グチック、、。
真面目に考えました。
で、出てきたモノが、いろんな意味で山岡さんの頭でした。
あの形、あの膨らみ、そして、見た目から伝わるグチックの感触。あの頭からムニュッと出てくるグチックがグチックだと思います。

大川輝 / P.O.S建築観察設計研究所