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Statement

私たち behind our perspective

私たちとは誰のことなのか?私とあなたを含む複数の人たち。たとえばコミュニティ。家族とか、人間とか、日本人とか。あるいは多面性を持つ複数の私という存在、つまり複数の私。私はまだ知らない私に生きている限り出会うことがある。それは遠い過去であったり、見知らぬ他者の想いであったり、今この瞬間や未来であるかもしれない。見知らぬ誰かの中に自分を発見することはめずらしくない。自分の探していた言葉を誰かがすでに的確に言っていたりすることもよくある。それはもう一人の私に出会っているのではないか。展覧会のタイトルを決めるとき、私と私の作品の背景にある多層の奥ゆきやつながりをどのように云ってみようか、内面的なミクロなものから概念的なマクロなものまで…。

個人的な事だが、私は私の存在について知るための手掛かりとして日本や日本文化に半ば強迫的に関心を持ち、そのなかで日本画に出会った。しかし、当時の私にとって日本画に日本は見つけられず、代わりに大野一雄の捉えがたい存在に日本を直感的に見出した。当時私は17歳だった。自分にとって最も身近であるはずの足元さえ、何も知らない未知の世界であることに唖然とした。日本とはなにかという問いが、私とはなにかという問いに擦りかさなってきた。そこで古典についてもっと学ぶべきだと考えて、大学で古典絵画の模写に取り組むこととなる。古典に向き合う時、それは過去の他人事ではなく、私ごととして一度とらえ直さなければならない。それはかつて誰かのつくったものであるが、その誰かのこころに寄り添い、思いをかさねる想像力がなければ入り込めない。その想像が、私ごととしてなにか共感できるとき、それは時を越えて人間同士のつながり、他者のなかの私を発見するのでしょう。

この展覧会では時代も国も様々な他者の言葉に出会います。私が偶然出会ったそれらの言葉も、他者のなかの私の一部(私たち)かもしれません…。

展覧会のタイトルは鑑賞者に一番最初に投げかけるメッセージだと思います。タイトルは展覧会構成の一部であり、展覧会全体や作品の鑑賞体験についても残響してもらいたい言葉です。なぜ、私たちなのかということのperspective(視座、空間)も個々に違っていて良いと考えています。その向こう側(behind)について考えて貰いたいですし、解説をするとすれば個々の作品の解説をしてゆかなければならないでしょう。

山下 和也

About

 日本画家であり、東洋絵画修理技術者(国宝修理装潢師連盟外部技術登録者)として活動する山下和也(やました・かずや/1978年・大阪生まれ)は、2003年に京都嵯峨芸術大学付属文化研究所研究生を修了後、日本・中国の古典絵画の模写と文化財修復で培った技術と経験をベースに、日本の歴史や文化、思想を顧みながら、伝統芸術と現代芸術を捉えなおすことを主眼に作品を制作しています。近年は特に水墨表現に着目し、目には見えない「気配」のようなものを、淡墨とほんの僅かな筆致、余白によって表現する罔両画(もうりょうが)に取り組んでいます。また、墨を用いてアクションやパフォーマンスの領域を横断する、8世紀の中国の芸術表現「破墨」について考察し、神楽舞手、ファッションデザイナー、美術家とともに、現代にその再構築を試みる「破墨プ
ロジェクト」を2018年より企画するなど、幅広い領域での活動を続けています。
 本展の構成において、その中心となる罔両画(Ghost style painting)は、中国南宋時代に禅僧の余技として生まれた絵画のひとつであり、極度に薄い墨と僅かな筆致で描かれた消え入るような見え方から罔両(魑魅魍魎、精霊)と名付けられるものです。罔両画やその系譜にある牧谿(もっけい/生没年不詳。13世紀後半、中国南宋末元初の僧)の作品は、室町時代の足利将軍のコレクションである東山御物に多く所蔵されるなど、狩野派をはじめ、長谷川等伯、俵屋宗達など、日本の水墨画史上に多大な影響をあたえたものですが、以降600年に渡って主に取り組む作家はおよそいないとされています。山下はこの罔両画を『「幽玄」や「余白」といった日本の美意識を感じることが出来るものであり、東アジアや日本美術史、室町文化やその美意識を再考するうえで、とて
も重要な絵画』と考え、水や素材の持つ性質や現象を活用して描くオリジナル技法へと展開しています。
 山下の罔両画による作品を中心に構成される本展は、「テキスト」をもうひとつの重要な構成要素として扱います。ロラン・バルト、フィオナ・タン、森鴎外、土方巽など、会場に配されるテキストは、いずれも過去に全く別の目的や文脈で書かれたものの断片であり、直接的に個々の作品を補足・補完するようなものではありません。しかしながら、本展においてこれらは、誰の、どのような言葉であるかという背景も含め、作品の鑑賞体験に強くはたらきかける内容が選ばれています。繊細な濃淡やかすかな筆致によって描かれる山下の罔両画は、そこに射す光と、光を受ける紙との狭間に淡く「絵」が存在するかのようです。また、僅かな変化で緩やかに見え方がうつろうその線は、鑑賞者の身体や記憶・経験によって異なる景色をうつしだすものであり、「絵」は線と鑑賞者の狭間に存在するものであるともいえます。
 本展は、作品とテキストが、鑑賞者によって直線的・平面的な関係のみならず、立体的な関係性へと展開することを企図して構成されています。また、そうして作品と鑑賞者によってつくられたパースペクティブ(空間、視座)を、鑑賞者自らが泳ぎ・漂うような体験をしていただければと願っています。鑑賞者が作品(他者)の中に自らを発見する時、そこには個人や国、時代を超えた「私たち」が立ち上がるのではないでしょうか。そして、「私たち」はその向こう側(behind)を眼差すことを可能とするのではないでしょうか。