母の漕ぐ自転車の後ろで、彼女の背に強くつかまりながら息子は月を見上げている。
母の若い足がどれほど自転車を進めても、夜空の月は息子を追う。息子だけを追う。
追う月は、彼をじっと見ている。その眼差しは、池に映るのと同じように、彼の心にも映し出されてた。
空と心にと、月がふたつになった。
月がふたつになったこの事を、だれが見つけることができるだろうか。
彼自身にも月がふたつになったことは、わからない。
彼は、月がふたつ、なんて馬鹿げたことは思わない。
ただ「(私は)月だ」と思っていた。
月は「月が」と叫んでいた。
母の背に。
いずれ街の軒や木々が、息子と月とを隠してしまう。
眼差しが断たれる瞬間、空の無い夜以上の暗さが世界を満たすだろう。
だけどそんな暗さはほんの一瞬の出来事で、すぐにもとの明るさにもどるだろう。
道、家、電柱、自動販売機、商店、草むら、犬の糞、、ひとつひとつ判別のできる明るさがもどる。
暗さの中に、明るさがともる。
暗さ。明るさ。
暗さ。
暗さが心に残っている。
明るさの内に暗さが隠れている。
彼は、いずれ、その暗さの中に母も自分も飲み込まれる事を予感する。
いずれ?
月が言わない。
予感なんて。決定的に感じ損ねている。
今まさに息子は暗さに中にいる。息子は気づきようもない。
母の疾走する自転車は息子を乗せて、その暗闇に止まっている。
道は、家に溶けて、電柱に溶けて、自動販売機に溶けて、商店に溶けて、草むらに溶けて、犬の糞に溶けて、
全ては暗さに溶けている。
”溶けて、”のコピー&ペーストは、左から右へ、右から左へ、上から下へ、下から上へ、
右手と左手は何も掴まないままに、、溶けて、、溶けて、、溶けて、、溶けて、、溶けて、、
息子は”溶けて、”ない。それは息子に眼差しを与えない。
息子は、見る。
息子は、「ぼく!」とさけぶ。私のモノ!と叫ぶ。
月は目を閉じる。
わたしの道、わたしの家、わたしの電柱、わたしの自動販売機、わたしの商店、わたしの草むら、わたしの犬の糞、
”わたしの”のコピー&ペーストは、左から右へ、右から左へ、上から下へ、下から上へ、
右手と左手は何も掴まないままに、、わたしの、わたしの、わたしの、わたしの、わたしの、
うるさい!
ちがう。
わたし、は目を閉じられる。
母は振り向く。
ばいばい おかあさん。
麥生田 兵吾