AS 4 左手に左目|右目に右手
デタラメに言葉を組んでみました。
「左手に左目」そして「右目に右手」。
動詞も加えて、「左手に左目を持つ」「右目に右手を持つ」。
主語も要る、「私は左手に左目を持つ」「私は右目に右手を持つ」。
これらの文で表現されていることはどちらも実際にはできないと思いますが、想像を試みることはできる。
想像する。
あ、どうでしょう、これらの文を思うには、「私」の位置をそれぞれ異なるところに配置しないといけない。
目は「私」の振る舞いの出発点になる。“見ている私”。
「私の位置」てなんだ?ってなるでしょうか。
この言葉に表される位置を把握するには、だれもが「私」になって想像してみるしかない。
まず“私の左手”は、私の目前のそして手元に見える。
つぎに左目はどうか、左目は“私”に接続しているので、左手までこの左目を届けるには、左目を“私”から引き剥がさないといけない。
引き離されて“イメージ”となった“左目”を、私は注意深くにぎる。
左手に持たれた左目は、確かに“私自身”なのだけど、“私のもの”とも言えるようになり、他者としての色を帯始める。
見る側だった左目は、私に見られる側に、どうしようもなく成った。そして左目からの視界は、遠く霞んで余所余所しくなっていく。
何にせよ、「左手に左目を持つ」を持つことに成功した。
想像だけど。
そんで今度は右のやつだ。
右目、“右目に右手を持つ”。難しい。
でも想像なので、やってできないことはない。
では、やります。右手をじっと見つめて・・・
はいっ、右目は右手を持ちました!
右目はギュッと右手を掴んでいます。右手が痛いくらいです。
でも右目で右手を持つものだから、目の前が塞がって右目では右手以外何も見えません。
この姿を確認できるのは、左手に持たれた左目だけです。
左目は、じっとこちらを見ているのでしょうが、右目ではそれが見えません。
左目の映像は白々しく、右手の痛みも全く共有できず、いよいよ遠い他人になっている。
左手は、徐々に乾燥していく左目の手触りにムズムズしている。
そんな余所余所しい左目と役立たずの右目ですが、
眼球の身体的な距離でない、“左目”と“右目”の眼差しの出発点違いよって生まれる違和が、単一の眼差しではない関係し合う眼差し、ある位置から位置へと行き来し合う眼差しを生み出す。
この行き合う眼差し(私の位置)は、本来は異なる領域にあるはずだけど隠蔽されている「目の前(=在るもの)と目の奥(=記憶そして因襲)」の関係をおおっぴらにするのです。
私のこのような内部の“私”の位置に在りかによって、“目の前”に在る他者の位置もかわりそして見え方がかわり、何かの物陰に隠れるものごとも姿を現します。
デタラメな話からでしたが、私は位置に気づくことで、距離が見つけて、そして私は「線」を引くことも覚えました。
線は視線でもあり、関係性でもあり、境界でもあります。
ここーあそこ。
ここから〜あそこまでの線。
ここまで〜の「ここ」の線、あそこ〜の「あそこ」の線。
ここの線からあそこの線まで。よーーいドン!
すごいスピード!どんどん加速する!「線」がみるみる世界を組み立てて行く!世界自身も追いつけない。
線を使うと領土が生まれてしまいます。領土は四方を眺め、四方を囲い、囲いは線で表現されます。
線で囲われた世界。
世界は「世界」って言葉で表現されることで、世界って心に映る(世界って言葉が生まれる以前は世界はない。差異が無限だった)のとおなじ仕組みで、具体的な線で囲われた領域から、世界は私たちの目に風景として映るようになる。(それ以前はきっとただの眺めだった。ただと言っても見る見られるといった関係の溶け混じった家族のように親しみのある眺め)
しかし「世界」は言葉に風景にされた途端に、その世界の生き生きとした姿は言葉と風景の内側に隠蔽、抑圧され石油でできたような偽りの死の静寂を纏う。このような仕組みは破壊も脱出も不可能だ。
だって言葉以前、風景以前に帰えったり忘れたりするわけにはいかないのだし。
だから、私たちは生き生きととした世界を呼び戻すことができるとすれば、それは「言葉」と「風景」からその中心からそれ自身から出発するしかない。ゴタゴタ述べるまでもなく、私たちはそうしてきた。
だけどです、現代においては、あらゆる物事が均一化されすぎました。
差異を無視して無理矢理にでも均一化するのが、言葉や風景なのに、そのことを私たちは忘れてしまった。
私たちの感じることに先行して言葉と風景があり、言葉と風景が私たちの感性を造っている。
そして私たちは、2つある目がまるで一つしかないように思い込んでいて、だから反省のしかたもわからない。
言葉と風景をコピペみたいに途方もなく繰返した先に、私たちはいる。
言葉と風景の「元」が、もはや遠すぎて見えない。
あ 線も、言葉と風景と同じだ。
線という形は、本当はない。鉛筆で引かれた線は、線を表現したものにすぎない。
ただ違うのは線は「線という概念」を表現しているけど、言葉と風景は、概念だけでなく表現そのものを表現している。
話長くなりました。すみません。
だから言葉や風景を生きるものにするには、「元」を振り返り思うことになるでしょう。
あ 振り返る必要もないかもしれない。
だって「元」は私たちの内部(目の奥の奥)に原初的にあるものなのだから、新しい「元」を見つければ良いのではないのでしょうか。弱々しいものでいいと思います。
それを発見できれば、それを手がかりに遥か遠くの「元」も見つけやることもできると思うからです。
ただし発見するや否や「元」はたちまち言葉化、風景化するので扱いが難しそうです。
もしまた遠くへ失ったとしても、また見つければよいだけです。
何度でも繰り返し続ければいいだけです。
「私」は、どの位置にいるのか、それを知り感じることが大切です。
そして位置は、一つの固定された視点からでは確認することはできません。
「元」が原初的に内部(目の奥の奥)あると言う理由は、「左手に左目|右目に右手」の振る舞いを思う事ができるからです。
経験より先行する破綻した言葉を、生きるものにしているのは、間違いなく私だからです。
麥生田 兵吾