私は知っている。
誰かがわざわざ言うまでもなく世界は在るということを。
朝起きて目覚めれば世界は在って、家から外へ出ても世界は在る。突然雨が降ってきたからといって世界は揺るぎはしない。
いたるところに世界はある。私の世界。私たちの世界。いたるところ---
と、つい口から出てしまったけれど、そのとおりで世界はひとつではなく複数ある。世界はひとつではない、これは「私」がひとつでない可能性をも暗示している。
どうしたってある世界は、人の気持ちの良し悪しといったような感性的経験によって世界はその存在を強く成長させるよう。
経験は未来へ先立たないので、世界は過去へと向かって建築物のよう組み上げらえているはずだ。私たちの世界が遠い過去のどこかしらの地点にそびえ立つ構造物だとして、それが巨大に成長しすぎていれば、近さや遠さを錯覚することもあるだろう。遠すぎて感受・解像できずに細部を失いひとつの「世界」という単一な様子に化けてしまうこともあるだろう。
感受・解像する感性は外部にたいして開かれているが、感性も経験によって養われているのだから経験されたことのないものに対して本質的に鈍感なはずだ。
私はこの鈍感さとのつきあいかたにいつも苦労する。
鈍感さは何かを感受すると、それを“何か”にする。鈍感さに照らされるまで、“何か”と“何か以外”はひとつにとけあった状態だった。
感受するということは物事を照らすことに似ていて、感受するということは影(照らされていないところ)をつくることでもある。
鈍感さは、照らした部分を何かと判別するわけではない、照らされなかったところを自覚することもしない。
もしも私にその時々に勇気を持つことができて、“何か”を“何か”のままに、“自覚できないもの”を“自覚できないもの”としてまんま受け入れることができたとしたら、私はようやく“今”という地点を足元に確認することができるだろう。
躍動の中に私をおいておける。命、それ自体になれる。
生きている。
“今”へ至るまで回り道したけれど、とうとう眼前の世界に対して「あれは何だ?」と問う“ことができる”。今降っている雨で考えよう。
“今”にいる私は世界=過去を問う。この問いがそのまま過去に向かっているなら答えは当然過去にあるだろう。「知っている。これは雨だ。」
欲望・期待されるような答えはおよそ全部が過去に属している。
だけどもしこの問いに答えを見つけられないのなら、答えのある場所は過去ではなく今から先の未来にある。「何だろう、わからない」(この時、世界=過去は世界=未来に反転してるやん)
雨を知らなければ、知るためには濡れなければならない。濡れるという経験が、問いそのものであり、“経験=問い”そのものが「雨!」になる。
問うということは未来に暗闇に足を踏み出すこと。
暗闇に足を踏み入れているということは生きているということ。
脳裏に突然現れた暗闇の先に浮かぶ太陽。
まだ進んでいける。
しかし、まあなんだか疲れる。
世界は広すぎるし多すぎる。世界にたいしてどれほど問えることができるというのか。
へとへとになったので気晴らしに想像してみよう。
今、降ってきたこの雨が、私のはじめての雨なんだと。
はじめての雨? すごいね。おどろく。
何だこれ? ってなる。
ただの想像なのに楽しい。
あれ? でも雨ってこんなんやったっけ?
想像からぬけた私は動揺する。
知ってる雨が本当にはじめての雨になった。
この雨は春の雨で、花を散らす重い雨で、新芽を芽吹かせる温かい雨。初めて経験する雨だった。
おもしろい。
そうか、驚くんでいいのか。
想像して驚き、そして経験して驚く。
そうすればよい。
※
曖昧になってたらいけないので最後にはっきりさせないといけない。世界をどうこうしているその主語は「私」
「私たち」です「私。 」は“麥生田”。なら「私たち」は“麥生田たち”?なんかちゃう。「“私”たち」のうちにある“私”は「私」とはいつも一致するわけではなさそうですね。
おわり
麥生田 兵吾