Top

Previous page

Exhibition info

チクチク、痛いの

藤川 怜子

Fujikawa Satoko

2015.10.6. 〜 10.18.

Exhibition View

9 images

Statement

学生時代より自分の身近に起こった個人的な出来事を、さまざまな素材にのせて作品制作を続けてきました。


火葬場で父の遺骨を拾った時の感覚を作品で再現しようと、薄くてもろい陶器の花を作ったり、失恋をした時は、その衝動をセルフポートレートにより写真で表現したりと、その時々に応じてさまざまな素材を使い、表現手法を変えてきました。次はこんな方法で作品を作れば面白いのではないか、こんな素材を使えば観に来た人を驚かせ、興味を抱かせることができるのではないかと、模索を続ける日々でした。
そんな制作を続けるうち、自分と作品の間に違和感が生まれ、それは次第に大きくなって、ついには自分の思いとはかけ離れた作品が生まれるようになったのです。

 

「表現とすることとはなにか」を改めて考え直した時、もう一度最初からおさらいする必要が私には必要でした。鉛筆を削り紙に線を引く、しっかり「モチーフ」を見て描く。それらの行為は、素材の力や表現方法に頼りきっていた私にとっては、反省文を書くような感覚に似ていたようにも思います。
「表現とは」という迷宮に迷い込み、勝手に疲れきっていたこの頃の私の顔には、よく口唇ヘルペスや目蜂子ができました。腫れた唇や目をよくよく鏡で観察していると、自分の心象風景と大きく重なり、“これはなんとダイレクトな表現なのだろう”と妙な感動を覚え、それ以来、傷口を眺めては描くという行動をここ2、3年続けています。

 

画面の中に描かれる目や唇は、すべて鏡を見ながら描いたもので自画像です。ある日、顔にできた口唇ヘルペスや目蜂子、口内炎を観察していると、私の心の様子を視覚的にも感覚的にも、具体的かつ的確に表現しているように思え、妙に納得し感動したという出来事がありました。身体の内に近い、むしろ内臓が表に見え隠れする、目や口からあふれ出るヘルペスによってできた水泡は、内側に隠しきれないしんどい思いが形となって現れたようであり、ヒリヒリとした感覚は心の痛みそのものでした。また、自分が”生もの”で生きているのだという不思議な感覚も同時に味わうことが出来るのでした。

 

これらを描く作業は、個人的な自己対話であり、ただ自らを落ち着かせる作業なのかも知れません。しかし、今の私には必要なことであると感じています。「主題と深く向き合う」「シンプルに作品と対話する」ことが、もう少し理解できるまでは、まだ、これらの作業はやめることができないのかも知れません。

 

藤川 怜子

About

 藤川怜子(ふじかわ・さとこ/1983年・神戸市生まれ)は、2007年に京都精華大学芸術学部立体造形分野卒業して以降、おもに鉄などを素材として、その特質を活かした彫刻的な作品から、シリコンや発光ダイオードによって空間全体を作品化するインスタレーションの制作・発表を続け、2011年のGallery PARCでの個展「スマと私の7ヶ月」では、純白のドレスをお菓子や化粧品によって装飾したインスタレーションを発表しています。これらは「生:死」、「精神や身体への葛藤」、「恋」といった藤川の内面に浮かびあがった時々のトピックについての好奇心や違和感を再現するものとして、それぞれの素材や展示空間と向き合い、選択・表出されたものであるといえます。

 

 しかし、こうしたベクトルでの作品制作に取り組むにつれて、藤川は次第に『自分と作品の間に違和感が生まれ、それは次第に大きくなって、ついには自分の思いとはかけ離れた作品が生まれるようになった』と言います。藤川はこれまでの制作において、素材の力を借り、鑑賞者により興味を抱かせることを望むなかで、曖昧な自身の内面にカタチを与えるプロセスを辿ってきました。しかし、結果的に「外的因子に感応しすぎる」作品制作は、いつしか自身の表現における動機と目的における大きな違和感として自覚され、その後に悩ましいジレンマに停滞することとなりました。

 

 本展「チクチク、痛いの」はその藤川の絵画による展覧会として開催されます。『“表現とは”という迷宮に迷い込み、勝手に疲れきっていた私の顔には、よく口唇ヘルペスや目蜂子ができました。腫れた唇や目をよくよく鏡で観察していると、自分の心象風景と大きく重なり、「これはなんとダイレクトな表現なのだろう」と妙な感動を覚え、それ以来、傷口を眺めては描くという行動をここ2・3年続けています。』とする藤川は、ただひたすらに対象(自身)を「しっかり見て」、そこに浮かぶ些細な信号を「写しとり」、そこに再び自身の内面を見出そうとするこの行為を、「反省文を書くような感覚に似ていたようにも思います。」と言います。大画面に描き写された口唇ヘルペスは、どこまでもグロテスクなもうひとつの自分とも呼べるもので、藤川の“主題(自分)と深く向き合う”ことに忠実に迫った取り組みの痕跡であり、それは他者との距離ではなく自分の中にある“自分との距離”を知るための個人的な探求と呼べるものです。しかし、自らの有り様に目を背けることなくしっかりと眼差しを送り、ゆっくりと自分を確認し、統合しようとするようなチクチクと、ヒリヒリとする過程は、私たち鑑賞者にとってもまた、知らない痛みではないのではないでしょうか。