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Exhibition info

Artificial S 2 -Daemon-
麥生田兵吾

Mugyuda Hyogo

2014.5.6. 〜 5.18.

Exhibition View

10 images

Statement

 主題「Artificial S」。

 「S」は「感覚,感性=sense」という意味を持たせています。ですから「Artificial S」は、「人間の手により作られた感性」というような意味です。この主題は5つの章に分けられています。今展覧会はその2章目の”Daemon”。人の心におさまっている正体を定めないイメージ=daemonをみつけます。

 たとえば、心をピタッと変わらないままで伝えようとすれば、向うへ届くまでの間でポロポロとたくさんのものが嘘のほうへ落ちていきます。嬉しい事を“嬉しい”と、悲しい事を“悲しい”と、かっちり決まった言葉を使っても、大きい小さいはあるものの喪失感を覚えます。りんごを「りんご」と届けても同じのようです。

 写真も同じようなことが起こります。
 対象が光学的なものでなければ写真にはできませんが、”このりんご”と”写ったリンゴ(写真)”は異なり、”見られて了解されたリンゴ”もまた異なります。そして写真はリンゴの姿の痕跡として大変強い確かさを与えますから、それぞれ在るはずの差異をみえにくくしています。

 言葉も写真も嘘をつきます。
 ですがこれも嘘です。事物には嘘も本当もなく、ただ在るだけなのだから。意味などきっとないのです。
 私はある精神的にまいった時期がありました。いよいよ心が酷くなった頃に見ていた景色は”意味”がありませんでした。リンゴはただリンゴで、コップはただコップで、りんごとコップに何も違いはなく、その違いのなさにも違いはなかったのです。文字通りの意味のない世界です。

 そのような世界で写真は必要はありません。もちろん在ってよいですが写真を発見することはできないでしょう。ですからわざわざカメラを持ち出しシャッターを押す必要などあるわけがありません。完成した世界、静止した世界でした。ただそれを決定しなかったものは命です。私の小さくなった心臓が、静止した世界で動いていました。私は私の生で一番最後となる覚悟をしなければいけませんでした。

 私は命を信じます。
 命は静止する事から抵抗し、世界を見ます。
 見ることで意味を生みだすのです。
 見つけるのです。

 この世界は不可能で覆われてる真っ暗闇です。しかし命は、手探りする事だって恐ろしい闇をビリビリ切り開いて進んでゆきます。この力は想像力です。
 スプーンを持ち上げる事だって、階段を降りる一歩だって、歌うこと、踊ること、これらは全て想像力によるものです。想像力こそが不可能を「ソンナ事ハナイ」と否定し続けられるのものです。(こういった理由から、シャッターを押すという所作からすでに意味を感じていますので、私は写真家と名乗らずにいられません。)

 嘘や本当という話しに戻りますと、実はそんなことはどうでもよいのです。ただ、そのどうでもよいことから学ばないといけない事は、言葉がただ言葉であり、写真はただ写真であるということです。私と他者との間にある点「・」、それが言葉や写真です。その「・」は正しかったり正しくなかったりしませんし、だから良いも悪いもありません。ただ、お盆にのったものをドンガラガッシャンとやってしまうような行儀の悪い「・」であればよいなと思っています。

 本展覧会の「・」は「daemon」です。みなさんは何を見つけてくれるでしょう。

麥生田 兵吾

About

 本展は今年で2回目の開催となる国際写真フェスティバル「KYOTOGRAPHIE」のサテライト展である「KG+(ケージープラス)」への参加展覧会です。また、Gallery PARCではこの開催期間にあわせ、「夏池風冴展」(4/8~4/20)、「大洲大作展」(4/22~ 5/4)、「麥生田兵吾展」(5/6~5/18)の3つの写真展を連続開催。本展はその第三弾となる展覧会です。

 麥生田兵吾(むぎゅうだ・ひょうご/1976年・大阪 生まれ)は写真に取り組むにあたり、その主題として「Artificial S」を挙げています。「SはSense= 感 覚( 感性 )」という意味を持つことから、「Artificial S」を「人間の手によりつくられた感性」というような意味として捉えられます。

 麥生田はこの「Artificial S」を補完・構成する一つの試みとして2010年の1月より、毎日撮影した写真を、撮影したその日のうちに自身のウェブサイト内「pile of photographys」にアップする試みを4年以上(現在も継続中)に渡って絶え間なく続けています。
 この麥生田の取り組みには「進まねば失い、怠れば後退する、そういった性質の感性ともいえるものを手に入れたい」として「私はこれを、例えば表現においても、先んずるものにしたいと考えています」とする意志に基づくものであり、「人間(=麥生田)の手によりつくられた感性」の存在を確認するための行為とも呼べるものです。そして、ここでは「写真」はその照査(証左)として存在しているといえます。
 麥生田は主題「Artificial S」を現在のところ5つに別けており、本展覧会ではその2つ目に位置づけられている“Daemon”(ギリシャ神話におけるダイモン=神々と人間の間に介在する二次的な神)をテーマとして、「人の心におさまっている正体を定めないイメージを露にする」ものです。

 展示されるそれぞれの「写真」は、いずれも我々が日常で目にする風景の一部がただ「写った」ものであり、それ自体はおよそ「意味」を持つものではありません。しかし、目の前のイメージ(図像)が鑑賞者に内在する茫漠としたイメージ(想像)を借りて、ひとつのイメージ(想像や図像や意味)を成すこと。いわば偶像崇拝にも似たこのベクトルが、鑑賞者の目に前にある「世界がただ写ったもの」によって引き起こされる時、私たちは確かにソレ(写真あるいは世界)に出会い、ソコ(写真あるいは世界)に何かを見つけます。ここで起こる事はただソレだけのことです。20点あまりの写真がただ在る本展で、皆さんは何を見つけるでしょう。