主題「Artificial S」。
「S」は「感覚,感性=sense」という意味を持たせています。ですから「Artificial S」は、「人間の手により作られた感性」というような意味です。
この主題は5つの章に分けられています。今展覧会はその2章目の”Daemon”。人の心におさまっている正体を定めないイメージ=daemonをみつけます。たとえば、心をピタッと変わらないままで伝えようとすれば、向うへ届くまでの間でポロポロとたくさんのものが嘘のほうへ落ちていきます。嬉しい事を“嬉しい”と、悲しい事を“悲しい”と、かっちり決まった言葉を使っても、大きい小さいはあるものの喪失感を覚えます。りんごを「りんご」と届けても同じのようです。
写真も同じようなことが起こります。
対象が光学的なものでなければ写真にはできませんが、”このりんご”と”写ったリンゴ(写真)”は異なり、”見られて了解されたリンゴ”もまた異なります。そして写真はリンゴの姿の痕跡として大変強い確かさを与えますから、それぞれ在るはずの差異をみえにくくしています。言葉も写真も嘘をつきます。
ですがこれも嘘です。事物には嘘も本当もなく、ただ在るだけなのだから。意味などきっとないのです。私はある精神的にまいった時期がありました。いよいよ心が酷くなった頃に見ていた景色は”意味”がありませんでした。リンゴはただリンゴで、コップはただコップで、りんごとコップに何も違いはなく、その違いのなさにも違いはなかったのです。
文字通りの意味のない世界です。
そのような世界で写真は必要はありません。もちろん在ってよいですが写真を発見することはできないでしょう。ですからわざわざカメラを持ち出しシャッターを押す必要などあるわけがありません。完成した世界、静止した世界でした。ただそれを決定しなかったものは命です。私の小さくなった心臓が、静止した世界で動いていました。私は私の生で一番最後となる覚悟をしなければいけませんでした。私は命を信じます。
命は静止する事から抵抗し、世界を見ます。
見ることで意味を生みだすのです。
見つけるのです。この世界は不可能で覆われてる真っ暗闇です。しかし命は、手探りする事だって恐ろしい闇をビリビリ切り開いて進んでゆきます。この力は想像力です。
スプーンを持ち上げる事だって、階段を降りる一歩だって、歌うこと、踊ること、これらは全て想像力によるものです。想像力こそが不可能を「ソンナ事ハナイ」と否定し続けられるのものです。(こういった理由から、シャッターを押すという所作からすでに意味を感じていますので、私は写真家と名乗らずにいられません。)嘘や本当という話しに戻りますと、実はそんなことはどうでもよいのです。ただ、そのどうでもよいことから学ばないといけない事は、言葉がただ言葉であり、写真はただ写真であるということです。私と他者との間にある点「・」、それが言葉や写真です。その「・」は正しかったり正しくなかったりしませんし、だから良いも悪いもありません。ただ、お盆にのったものをドンガラガッシャンとやってしまうような行儀の悪い「・」であればよいなと思っています。
今展覧会の「・」は「daemon」です。みなさんは何を見つけてくれるでしょう。
麥生田兵吾
作家略歴
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